人生の教訓6選

今日はぼくが25年生きてきて学んだ教訓を6つ紹介します。
25年間でたった6つしか学びがないの、悲しいですね。ぼくにはもうすこし学んでほしい。

さて、6つの学びは下記の通り。
これからひとつひとつ解説していきます。

1. 人生は複雑、というひとつのテーゼに集約されることはシンプル
2. 「嘘を重ねて真実に至る」とは「具体を重ねて普遍に至る」こと
3. 理解とは理性の問題、赦しとは感情と意志の問題
4. 再現性への固執と再現し得ない一回性への畏敬
5. 豊かさとは、選択肢が多いこと。Alternativeであること
6. 愛の深さと喪失の痛みはトレードオフ

1. 人生は複雑、というひとつのテーゼに集約されることはシンプル
人生はシンプルなのか複雑なのか。これは大いに悩ましい問題です。
これまで多くの小説や映画、そのほか芸術がこのテーマについて語ってきました。
この問題に対する僕の答えは、人生はシンプルかつ複雑である、ということです。
ある局面ではシンプルに思えるものの、季節過ぎ去れば突然複雑な様相を呈するもの、それこそが人生といっても過言ではありません。
ぼくたちの人生は微視的に見れば複雑に入り組んでいますが、巨視的に見ればひとつの循環的なまとまりを成しています。まるで猫が吐き出す毛玉のように。
ぼくらの人生は、猫が吐き出した毛玉です。
毛玉でしかないものを複雑かシンプルか、という二項対立で語ってしまうことから複雑化の罠は始まっているのかもしれません。
そんなときにはコーヒーでも飲みながら、ひとつうえのレイヤーから考えてみるのがいいかもしれないですね。

2. 「嘘を重ねて真実に至る」とは「具体を重ねて普遍に至る」こと
たしかドストエフスキーの『罪と罰』に、「幾千もの嘘を重ねないで真実に至ったものはない」といった趣旨の発言がありました。もしかしたら『カラマーゾフの兄弟』だったかもしれません。大学生のときの自分にはその意味が図りかねており、「いや、嘘を重ねなくても真実はあるやろ」と思っていました。ロシア人特有の激昂による妄言なのかな、とまで。
それから少し大人になってふとした瞬間に気づいたのがこの発見。
「物語」とは、真実の周囲をめぐるあれこれ、でしかありません。
「物語」とは、真実をそのまま語ることはできないのです。
たとえて言うならば「物語」とは「ドーナツ」なのです。
ドーナツの空洞を語るとき、我々が語ることができるのは、ドーナツであってドーナツの空洞ではないのです。
ドーナツという具体を重ねることによって、具体は物語となり、物語は普遍へと至ります。
シンプルに語る、ということは、細部を捨象する、ということ。
我々が真実を語らなければならないとき、シンプルに語ることは不可能かつ不誠実であり、複雑さをもったまま複雑に語らなければならないのです。

3. 理解とは理性の問題、赦しとは感情と意志の問題
理解することと、赦すことは別の次元の問題です。
この2つを切り分けて議論できないところから始まる世の中の悲劇というものは多いものです。
ぼくたちは、どんなに相容れない相手であっても、理解する努力を捨ててはなりません。
たとえばあなたに、忌み嫌っている相手がいるとします。肉親や、かつての親友、それから元恋人だったりするかもしれません。
そのとき、あなたは忌み嫌う相手のことを理解することもできるし、赦すこともできるのです。そしてまた同様に、理解できないこともあるし、赦せないこともあります。
ただ、物事は上記の2パターンだけではないのです。
理解し、それでも赦せないこともあれば、
理解できないけれど、赦すこともできるのです。
それは、あなたが「どう生きるか」という選択の問題です。どれが正しいということはありません。しかし、理解と赦しを区別して選択することは可能なのです。
このときひとつぼくが重ねて申し上げたいのは、理解することと、理解しようと努力することもまた異なるということです。
先ほど、理解する努力を捨ててはならない、と書きましたが、その結果として理解できないことはしょうがないのです。
それを無理やりに理解することは、自分自身の枠組みに相手を無理やりはめ込むことでしかなく、それこそ最も失礼なやり口になります。
たとえばネトウヨやパヨクといったように、相手を既存の枠組みに押し込めることは、「理解した気」になる最も危険な方法です。
理解とは、ある事象に対してコンテクストをセットに考えなければ成立しません。
あくまで、複雑なものごとを複雑なまま受け入れなければ、理解とは成立しないのです。
一方、赦しとは感情と意志の問題であり、赦す努力をし続けなければならない、ということは決してありません。しかし、赦すことが人生を豊かにするひとつの手段であることは間違いないでしょう。
赦せないこと、理解できないことは言ってしまえば「しょうがないこと」です。それはあなたの意思決定の問題なのですから。
しかし、理解する努力を捨てることはしてはならないのです。

4. 再現性への固執と再現し得ない一回性への畏敬
これはすこしビジネスよりの話です。
ビジネスには再現性が必要とされます。なぜならひとりの「スター」が支える会社というのはポートフォリオ上危険であり、組織として、チームとして強い方がリスクヘッジが効くからです。
たとえば、売上成績トップの営業マンの暗黙知を言語化し、型として横展開してくことがビジネスでは求められます。
しかし、再現性はコモディティ化を招きます。
極端なことを言ってしまえば、再現性の高い仕事しかしていないのであれば、その仕事は、ほかのだれか、あるいは競合他社によって代替可能です。
再現性を極限まで突き詰めることによって、再現し得ない一回性の持つ尊さは初めて際立つのです。
ビジネスはアートとは違う。その通りです。
しかし、ビジネスもアートもまた人生というカオスの中の一部であり、ビジネスをひとの人生から「疎外」してしまうことは乱暴な議論ではないでしょうか。

5. 豊かさとは、選択肢が多いこと。Alternativeであること
豊かさとはなにか。使い切れないほどのお金をもっていること?新型のiphoneを持っていること?毎日美女に囲まれて生きること?
豊かさについて語るとき、往々にしてぼくたちは自分の欲望の発露として、ある具体的な一場面を思い浮かべ、その帰納法によって語ろうとしてしまいます。
しかし、考えてみてください。
使いきれないほどのお金をもっていたとして、刑務所に入っていたとしたら?
新型のiphoneをもっていたとして、世界中の他の誰とも互換性がなかったとしたら?
毎日美女に囲まれていきていたとして… 美女に囲まれて生きるのはいいとしましょう。
われわれは、「こうではない」という状況を選択することも可能でありながら、「こうである」という選択をするときに「豊かさ」を感じるのです。
それをある意味では「自由」というのかもしれません。
しかし、選択肢が多いこと=豊かであること、と幸福であることはまた違います。
選択肢の多さは決断の遅延を招きます。そのことによって重大なチャンスを逃すこともあるでしょう。
それでも選択肢の多さ、あるいは豊かさとは、幸福に対する必要条件ではあるのです。

6. 愛の深さと喪失の痛みはトレードオフ
誰しも恋人に振られて落ち込んだ経験があると思います。ない、という人間にはこの教訓は必要ないでしょう。
恋人と別れたるときの胸の痛みは、想像を絶するものがあります。
もう二度と立ち直れないのではないかと思うほど。
しかし、それはまた、相手をどれほど愛していたのか、ということの証左でもあるのです。
喪失の傷の痛みは、そのものへの愛と全く同じかたちをしています。
鋭く尖ったものもあれば、まるで慈愛に満ちた月のようにまるく大きいものもあります。
その愛が大きければ大きいほど、我々の喪ったときの痛みは大きくなります。
ぼくたちは喪ってはじめて、そのものが自分にとってどれほど大切だったのかわかるのです。
そして、翻って言えば、愛したものでなければ、我々を傷つけることはできないのです。

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