「推しの卒業」について。

イントロ

11月14日、にじさんじ公式Xからこのような発表があった。

この卒業発表は一「ういふぁん」として非常に悲しいし、寂しいものである。
 しかし同時に、「推しが幸せならそれでいいのではないか」という考えも付随して発生するのである。
今回はこの感情について雑感を書いていこうと思う。

「推しの決断」は尊重すべき

「推しの卒業」は一オタクとして非常に悲しいものである。それについては
オタクの皆々様は特に異論はないであろう。

しかし
「推しが『卒業をする』と非常に大きな決断を下した。それに対して我々外野があれこれ言ったとて意味があるのか?」
という疑問が浮かんでくる。
推しも一人の人間である。彼・彼女なりに何かしらの心境変化や今いる場所よりももっと大きな世界に挑戦することを決めたのかもしれない。

(今回のういはろ(相羽ういはの愛称)の決断に関しては後者にあたると考えている。詳しくは本人のツイートを参照していただきたい。)

そのため、我々外野がいまさら言ったとて、彼・彼女の決断は変わらないだろうし、ここであーだこーだいうのならもっと大きな世界に飛び出していこうとする推しを「今までの生活の中で最高だった」と言わせてから送り出してあげようと思うのがオタクの本望なのではないかと考えている。

「推しが存在していた記憶」

今回の卒業に関してはライブ配信のアーカイブなどもそのまま残るということであるので、「推しが確かにこのインターネットの空間に存在していた」という記録は残るのである。

これが(本人の希望であるところである場合も多いが)「アーカイブ全削除、Youtubeチャンネル削除」まで行くと「推しが存在していた記憶」はそれまでに発売されていたグッズやファンアートタグに投稿されているファンアートのみになってしまう。こうなってしまうと我々はどうしようもできない。グッズの販売期限までに購入するしかない。

このような卒業になると我々の記憶にしか推しは存在しなくなる。人間の記憶というものは非常に弱い。ちょっとしたきっかけですべて忘れてしまう場合もある。そういうときのために「推しが存在していた記憶」は何かしらの形で残しておかなければならないと考えている。

「ファンは無力」

簡潔に言おう。「ファンは無力」だ。
正確に言うと「推しが一度決断したことに対しては無力」である。

我々ファンは、推しに対して行動を起こせる手段も少ないかつ、推しの決断については本当に何もできない。
この考えを頭の片隅にでもいいからおいてほしいと私は切に願っている。
この考えを持つだけで少しでもファンのみんなが救われるのではないかと思っているからだ。


最後に。

ういはろ!行ってらっしゃい!!


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