ヴィーガンを「マイノリティ」と言われたときに感じた違和感の正体。
今日は、ヴィーガンの方々に感謝していることを告白しなければならない。
あれは昨年12月のこと。Twitterのタイムラインを眺めていた私は、次のような記事を目にしたのだ。
クリスマスを2週間後に控えて、動物愛護団体「動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)」が、渋谷のケンタッキーフライドチキンの店舗前で、サンタクロースの扮装で、「ヴィーガンになってクリスマスにチキンを食べるのをやめよう」と通行人に呼び掛けるデモを行なっていたというのだ。
2017年にロンドンに3ヶ月ほど滞在していたときには、よく目にしていた光景だった。ヴィーガンを名乗る人々が、肉屋の前で家畜が残酷に殺されている写真などを展示したデモを行なっているのを初めて見たときには、なかなかの衝撃だった。何度か見かけるうちに次第に慣れていったが、ついにこうした活動が日本でも行われるようになったのかと、このニュースを見て多少なりとも驚かされた。
まず私自身のスタンスを明らかにしておきたいが、私はヴィーガンではないし、日々の生活において肉も魚もありがたくいただいている。だからと言ってヴィーガンを否定するつもりはまったくないし、私の友人にも何人かヴィーガンとして生活を送っている人がいる。特に偏見も持っていないつもりだ。
しかし、わざわざケンタッキーフライドチキンなど、肉を扱う店舗の前に出向き、「肉を食べるな」と呼びかけるのはさすがに悪趣味であるように感じてしまうし、ましてやロンドンで目にした活動のように、家畜が殺されている写真をわざわざ肉屋の前に展示するという行為は、営業妨害に当たるのではないかとさえ感じられた。
もちろん、彼らが動物を愛する気持ち、気候変動を憂う気持ちは理解できるし、だからこそヴィーガンを貫いているその行動変容には敬意さえ感じている。しかし、その“布教”のためには、いかなる手段も辞さないという態度には、どうしても抵抗を覚えてしまうのだ。
そこで、私はそのニュース記事を引用して、このようにつぶやいた。
すると、多くの共感の声とともに、多くの批判の声も寄せられた。もちろん、その多くがヴィーガンの方々からだ。自分たちの活動を批判されたのだからお怒りはごもっともだと思うし、そこは私とは相容れない部分なのでこれ以上、議論するつもりはないのだが、ひとつ気になったのは次のコメントだった。
なるほど、たしかに私は日頃からマイノリティの権利に敏感であり、「マイノリティのための政治」を主張している人間である。この方は、そうした文脈からあえて私に「マイノリティの意見を踏みにじるのか」と問いかけてきたのだろう。
しかし、このコメントに私は深く考えさせられてしまった。「ヴィーガン=マイノリティ」という構図にどうしても引っ掛かりを覚えてしまったのだ。確かに世の中を見渡してみれば、ヴィーガンを志向する人々は全体から見てごく一部であり、「少数派」と言えるはずだ。しかしながら、私自身が日頃から口にしている「マイノリティ」と同列に並べるには、どこか違和感を覚えてしまうのだ。
この「違和感」の原因がどこにあるのか、私は徹底的に考えてみることにした。
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