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友達なんかじゃなかった。

今日このエントリーを書くのは、とても勇気が要る。というのも、きっとそれは私の内面を晒すことになるだろうし、その内面とやらはとても褒められたものではないからだ。むしろ、弱くて、醜くて、本来ならとても他人様に見せられたようなものではないからだ。

でも、このまま何食わぬ顔をしてまた日常に戻っていくことはできそうにないし、それこそ、彼に顔向けすることができそうにない。だから、ここに、きちんと自分の気持ちを書いておこうと思う。それが、私なりの懺悔になればと思う。

そもそも、たったいま「彼」と書いたけれど、この表現だけでも数分間は迷った。「彼」ではなく、「彼女」なのかもしれない。でも、出会ったときには「彼」だったはずだ。いや、私が勝手に「彼」だと思っていただけで、本当は最初から「彼女」だったのかもしれない。

きっと、本人は一生問い続けてきたのだろうと思う。私などこの一文を書くためにたった数分間の逡巡で済んだけれど、本人はそれこそ物心ついてからというもの、ずっと問い続けてきたのだろうと思う。さぞかし、くたびれただろうし、さぞかし孤独な問答だったに違いない。

りゅうちぇると出会ったのは、いまから4年前だった。日本財団が主催する『True Colors Festival−超ダイバーシティ芸術祭』のアンバサダーに就任したのがきっかけで、その記者会見で初対面の挨拶をした。あまりテレビを見ない私にとっては、「りゅうちぇる=ヘアバンドをしたキラキラ男子」というイメージしかなかったけれど、実際に会ってみると、きちんと芯を持った好青年という印象だった。

それからイベントなどで顔を合わせる機会が多くなった。壇上で語られるりゅうちぇるの言葉は、どこかから借りてきた綺麗事などではなく、自分自身の経験の奥底から取り出してきた言葉をひとつひとつ丁寧に磨き上げたもので、キラキラと輝いてはいるのだけど、そのどれもにオリジナリティが感じられて、いつも聞き入ってしまう魅力があった。

「今度メシでも行こうよ」という話になるのに、そう時間はかからなかった。Pecoちゃんや息子さんとランチしたこともあったけれど、りゅうちぇる一人でわが家に遊びに来てくれることも何度かあった。そんなとき見せる顔は、メディアで見る「りゅうちぇる」とは少し違う顔だった。


「ぼく、意外とネガティヴなところがあるんですよ」
「けっこう人見知りで、芸能界の友達とかもほとんどいなくて」

こう書くと、メディアでの姿が偽りの姿だったのかと誤解する人がいるかもしれないが、決してそうではない。りゅうちぇるに限らず、人間には様々な側面があり、彼のまっすぐでキラキラと輝く一面は紛れもなく彼の真実だったし、それでも迷ったり、悩んだり、これでいいのだろうかと自問自答したりする一面もまた、彼の誠実な一面だった。

私には大切な仲間がたくさんいるけれど、りゅうちぇるもその一人だった。そして、彼は大切なだけでなく、貴重な存在でもあった。私を含めて「ダイバーシティを実現する」という想いで活動する仲間たちは、“当事者”である場合がほとんどだからだ。

障害者だったり、LGBTQだったり、海外ルーツだったり。想いを込めて活動している仲間の多くは、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれる属性だった。だから、「キラキラしたものやメイクが好きな男性」という「一般的ではないかもしれないがLGBTQ当事者でもない」存在のりゅうちぇるは、ほぼ当事者のみで構成されていた私たち仲間から程よく“はみ出た”存在として、じつに貴重だったのだ。

だからこそ、昨年のカミングアウトには驚かされた。同時に申し訳なさも感じていた。勝手に「当事者からはみ出た存在」として接してしまっていたけれど、りゅうちぇる自身もまた当事者だったのだ。その苦悩や葛藤に想いを馳せることなく、私が勝手に“助っ人”のように感じてしまっていたのだ。

私やほかの仲間たちのそうした態度こそ、もしかしたらりゅうちぇるを苦しめてしまっていたのかもしれない。言い出せない環境をつくり出してしまっていたのかもしれない。それまで数年に及ぶ付き合いを振り返り、私はみずからの想像力の貧困さを心から恥じ、りゅうちぇるに対して心から申し訳なく思った。

やがて、りゅうちぇるに対する世間のバッシングが始まった。

「あまりに身勝手だ」
「ぺこちゃんの気持ちを考えろ」

たしかにパートナーであるPecoちゃんの気持ちは想像を絶するものがある。だが、それとて外野がとやかく言えるものではない。よその夫婦や家族の話にあれこれ意見するのは、それこそ身勝手というものだろう。

居ても立っても居られなくなった私は、当時、すぐさまTwitterで反論した。

それは、りゅうちぇるをバッシングする人々への反論のつもりだった。だが同時に、「ずっと言えなかった」「ずっと自分を偽らなくてはいけなかった」状態を作り出してしまった私自身の、贖罪のつもりでもあった。

当のりゅうちぇるには、どんな言葉をかけていいかわからなかった。あれこれ考えてはみたものの、さして気の利いた言葉も思い浮かばなかった。だから、短く、ストレートに、これだけ送った。

「とにかく応援してるし、とにかく大好き!!」

その日のうちに返事が来た。私信の公開は本来であればルール違反だが、りゅうちぇる、ごめん、今回だけどうしても公開させてくれ。

「暖かいお言葉、有難う御座います。
Twitterも拝見させてもらいました。
感謝の気持ちで一杯です。
覚悟した上なのに
正直、今少ししんどくなってしまって
怖くてたまらないですが
前を向くしかないと思ってます。
早く元気になって
会えたら嬉しいです。
メッセージ、そして発信も、、本当に有難う御座いました」

「正直、今少ししんどくなってしまって」
「怖くてたまらない」

いま、こうした悲しい結末を迎えた上でこの文面を目にすると、「しんどい」「怖くてたまらない」といった言葉が浮き出て見える。それはまるで、りゅうちぇるが発していたSOSのサインにも見える。

なのに、私は、何を返したのか。

「絶対にだいじょうぶだよ。りゅうちぇるはりゅうちぇる。本当に大好き。無理せず、ゆっくりね」

なんだよ、この薄っぺらい返事は。全然「だいじょうぶ」なんかじゃなかったじゃねえかよ。おまえ、適当にカッコだけつけて終わらせようとしてただろ。「味方だよ」ってポーズだけ取って、どこかで満足してたんだろ。

なんで「会おう」って言わなかったんだろう。

なんで「電話しよう」って言わなかったんだろう。

友達じゃなかったのかよ。友達なら、なんでもっと踏み込んで、あいつの怖さを抱きしめてやらなかったんだよ。

反吐が出る。自分の軽薄さに、本当に反吐が出る。

大切な友人だった。大切な仲間だったなずなのに、私はそれに相応しい行動を取ることができなかった。

友達なんかじゃ、なかった。

少なくとも、私は、友人に値する行動を取ることができなかった。

それから2週間後、また『True Colors Festival』関連のイベントがあり、一緒に登壇することになった。りゅうちぇるの“発表”以来、初めての公の場ということもあり、多くのマスコミが押しかけた。

誰もがりゅうちぇるの“肉声”を聞きたい。けれども、余計なことまで話す必要はない。

メディアをどうコントロールするかは、同じ舞台に立っている私の仕事だった。


その日の夜、りゅうちぇるからメッセージが来た。

「今日もたくさん助けて下さり...
ホントに有難うございました。。!😭✨
いつも感謝の気持ちでいっぱいです。。!」

自分がどれだけしんどくても、どれだけ卑しい好奇の視線に晒されていても、つねに周囲への気遣いを欠かさない人だった。

正直、まだ消化などできていない。「彼の死をムダにしないためにも、さらに今後の活動を……」といった、いかにもありがちな美辞麗句も、まだ口にする気にはなれない。

ただただ、毎晩、彼を思い出しては泣いている。「彼」か、「彼女」か、「彼だった彼女」か、何が正しいのかわからないけれど、大切な仲間だったりゅうちぇるが、スッととなりから消えてしまった事実と、まだじょうずに向き合うことができずにいる。

はやく「彼」でも「彼女」でも「どっちでもない人」でもラクに生きていける世の中になってほしい。いや、「なってほしい」なんて生ぬるいこと言ってても、きっと何も変わらないから、やっぱり自分たちで変えていくしかないんだと思う。

でも、どうやって?

大切な仲間の苦悩にさえ寄り添うことができなかった人間に、いったい何ができる? このSNSに蔓延する、無責任で傲慢なエゴの渦を向こうに回して、いったい何を変えられる?

わかってる。たぶん、何も変えられない。変えられないけれど、だけど見て見ぬフリをすることもできない。

だから、今日から、また動き出す。

りゅうちぇる、よかったらそこで見ていてほしい。どれだけ変えられるかわからないけど、そこで見ていてほしい。そこから見ていて、もしも「まあ、それなりに頑張ってるじゃん」と思ってもらえたなら、そのときはもう一度、君の「友達」として受け入れてくれないかな。

最後に、りゅうちぇるが対談で語っていたこの言葉を、みなさんに贈ります。

「僕は小さい時からかわいいものやメイクが大好きで、周りからは男の子なのに個性的だねって言われてきました。でも自分の中では、いまでも自分らしさについて、まだそれが何なのかわかっていない時もあります。自分のことを愛せない夜もあります。僕って全然完成していないし強くもないんです」

多様性で大事なのは、強要しないことじゃないかな。人との関係でも、自分はこう思うからあなたもわかって! ではなくて、なるほどあなたはそういう意見なのねって、まずは認める姿勢を見せること。自分自身に対しても、これは嫌だ! 違う! ではなくて、嫌いなこともいつか好きになるかもしれないという目でものごとを見ること。相手にも自分にもどこまでやわらかくなれるかだと思うんです

多様性とは、相手にも、自分にも、どこまでやわらかくなれるか。

「そっか、あなたはそうなんだね」

多くの人がそう思うことができていれば、りゅうちぇるも、まだこの場所で笑っていられたかもしれないね。

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