加藤智大と植松聖から考える死刑制度。

2008年に秋葉原で無差別大量殺傷事件を起こし、殺人罪などに問われていた加藤智大死刑囚の死刑が執行されたことが、法務省から発表された。

当時、センセーショナルな事件として大々的に報じられたこともあり、今回の死刑執行についてもSNSで多くの人が言及している。わずか半月ほど前、山上徹也容疑者による安倍元総理銃撃事件が起こったことも、今回の死刑執行に多くの人が関心を示した要因のひとつになっているのかもしれない。

この件に関する意見の多くは、「冤罪の可能性がないのだから、もっと早くに死刑執行すべき」というものと、「そんなすぐに死刑執行がなされたら自殺願望の人が“無敵の人”となり、凶悪犯罪が横行してしまう」というもので占められており、「そもそも死刑制度に反対である」という意見はほとんど目にすることがなかった。

そして奇妙な巡り合わせだが、加藤智大が死刑執行を受けたことが発表された今日7月26日は、「相模原障害者施設殺傷事件」が起こった日でもある。今日で事件から丸6年が経過した。「奇妙な巡り合わせ」と書いたのは、この事件の犯人である植松聖にも、やはり死刑宣告が言い渡され、刑が確定しているからだ。

加藤が起こした事件と植松が起こした事件は、一般的には「似ている」と思われるのかもしれない。たしかに「大量殺人」という共通点はあるのだが、私はこの二つの事件はまったく別物だと考える必要があると思っている。

それは、加藤が起こした秋葉原の事件が「完全無差別」であったのに対して、植松が起こした相模原の事件は「無差別ではなかった」からである。

植松は自身が障害者施設で働いた経験から、障害者を生きる価値がないものと見なし、「心失者」と呼び、障害者に限定して殺人を犯した。つまり、特定の人々(植松の思想においては障害者)に限定して殺人を行ったという意味において、加藤が「完全無差別」なら、植松は「完全差別」殺人だったのだ。

どちらが許されて、どちらが許されないといった問題ではない。どちらも等しく許されざるべき行為だ。しかし、「私たちとの類似性」という観点から考えると、植松が犯した殺人について、私たちにはより深い考察が必要なのではないかと思っている。

「植松聖による殺人」と「私たちの思想」に類似性がある、などと言われれば聞き捨てならないだろう。しかし、この後に続く文章に少し目を通してみてほしいのだ。

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