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「あわよくば」が自由を蝕む~3つの話から考える

■若い頃の経験

 忙しい職場。ぴりぴりし、殺伐とした雰囲気。
 今、自分の意見なんか言えば、周囲から上司から集中砲火を浴びそう。成果ばかりが求められ、自由なんか何もない。
 頭の上を飛び交っている仕事。トラブル対応。無茶な期限の案件。どれも胃が痛くなるものばかり。誰がやるのか、皆で押しつけ合っている。
 周囲の先輩達は派閥づくりと上司への忙しいアピールに余念が無い。自分と意見が合わない奴の悪口。告げ口なんて当たり前。

 こんな時は頭を低くして、声を立てず、静かに淡々と仕事をしよう。そうすれば、仕事を振られることはないはず。
 ヤバい。自分の名前が挙がっている。どうしよう。大人しい後輩の名前を出そうか?そうすれば、自分は仕事を振られなくて済む。
 今日はもう深夜帰りなんてしたくない。定時で帰りたいけど、言えるような雰囲気じゃない。

 本当にそれでいいんだろうか?違和感が半端ない。
 自分を守るためには仕方無いんだ。もう頭が回らない。心身が限界。
 でも、心がチクチク痛い。本当にそれでいいんだろうか?

 感じたとてつもない違和感。色々なことを人に押しつけて、「あわよくば」楽をしようとする先輩たち。そんな先輩達に迎合してしまっている自分。

 自由闊達に議論をして、周囲と協力して前向きに仕事をしたいと常に思っていた。
 でも、あの頃は、周囲に対する違和感と自分への無力感、嫌悪感が自分をいつも支配していた。

■最近の経験

 今の職場には、定年を超えて働く再雇用の人が沢山いる。
 でも、再雇用という自分の立ち位置なんて全く意に返さず、定年前の役職の感覚でマイペースに仕事している人たちがほとんど。

 その中で気が合い特に仲良くさせてもらっているのは、腰が低くて地道に仕事に取り組む優しい方。
 他社で定年後、長年働いた会社の再雇用ではなく、畑違いの我が社に身を委ねてこられた。
 彼は、ここで新人、女性など多様な人とコミュニケーションを取りながら、少しずつでも自分の役割を全うしようとしている。

 多様な人とのコミュニケーションには多くの摩擦が生じる。畑違いの仕事だから、失敗を認めて謝らないといけないし、学ばないといけないことが多い。年をとって、その摩擦を毎日クリアするのはなかなか難しい。
 どうしても愚痴が出る。昼休みにその愚痴を聞くのが私の役目。
 でも彼は相手の非難は全くせず、ひたすらぼやく。
 自分のプライドもあるだろうし、相手に文句のひとつも言いたい時もあるだろうに。話していると、最後は結局ぼやきになっている。

 多くの人は過去の栄光にすがって、狭い自分の世界に閉じこもり、気に入らない自分以外の世界に文句を言っている。
 「あわよくば」長年勤めた会社からメリットを享受したいが、以前のように派閥やパワーゲームで乗り越えられない。
 年を取って会社の本流から外れている現実を受け入れられていない。

 そんな中で彼は、これまでやってきた自分の世界から外に出た。
 厳しい外の世界でぼやきながら、でも地道に社会とすり合わをしながら何とかやっている。

 そんな人の姿はとても眩しい。話していて元気が出る。

■「東京にいることが心地良い」という感覚

 興味深いコラムを読みました。

『たしかに、思っていたのとはちょっと違う。けど、期待していなかった住み心地のほうは最高だった。日常的な生活は、車にあれこれ詰め込める地方暮らしのほうが圧倒的に便利だけど、それとは別次元の居心地のよさにおいて、東京はぶっちぎりなのだ。ああ、ここにいていいんだと、街から許容されている感じ。街自体が巨大すぎるゆえ、「あんたのことまで見てられないから、好きにして」と放っておかれている感じが東京にはある。』

 自分も東京に出ようと思ったことがあった。
 「東京に出る」は「自由を手に入れる」ことと同義だった。
 そしてそのためには、常に競争に身を置く生活を選択しないといけないと思っていた。
 自由を享受すると、他者から監視されないし、思うとおりに生きられる。でも、その分指摘も強制もされないし、完全な実力主義。
 このコラムのような自由を東京に求めていた。
 自由は、自分で獲得するものだと思っていた。それは今でもそう思っている

 でも、東京には現実に「そこそこ」でも生きられるパワーと包容力がある。
 もし仮にその包容力に守られて、自分自身の現実に目を向けず、満足してしまえば「寄らば大樹の陰」。
 それは現実と自己を直視せず先送りする、「あわよくば」の姿勢だ。

 自由を手にするためには、自分と社会とのすり合わせが必要。
 享受していた自由は失ってから始めてその大切さに気付く。
 過度な「あわよくば」の姿勢は、今享受している自由をむしばみ、やがて失ってしまうかもしれない。

 「あわよくば」ではなく、自分ごととして考えたい。
 でもHSPは常に自分事。自分で自分を縛ってしまう。
 だからつい「あわよくば」の姿勢が目についてしまう。
 そして、「あわよくば」な時の自分が嫌いになる。

 HSPの自分が、自由で快適に生活したい。
 そのために自分はどうすればいいのか?どんな社会だったらいいのか?

 自分なりの答えを、ここに少しずつ書いていきます。

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