京短21号・阿波野巧也さんの口語韻律論についてのメモ

※2015年8月19日のブログ記事を移転しました

部室に置きっぱなしにしていた『京大短歌』21号をようやく持ち帰ってきた。
はじめに読むのは、楽しみにしていた阿波野さんの評論「口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文芸論』を再読する――」。
というより、他の評論や作品は、ちょっとしばらく時間がないので読めそうにない。

私にとっても、口語韻律論は重大なテーマである。
というか、短歌をやっている者すべてにとって、韻律論は重大なテーマである。
だから、私には私なりの韻律論が――これまでほとんど言語化したことがないし、今日もうまく言語化できるとは思わないけれども――身体の内に眠っている。
それが、阿波野さんの今回の評論とぶつかってもやっとした部分があったので、ちょっとメモしておきたい。
本当は『短詩型文芸論』を読んでから書くべきだし、もっと十分に寝かせて、 一篇の散文としてブログにアップした方が良いので、またあとでしっかり清書するかもしれない。

・〈くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ〉(五島諭)について。
小島ゆかりさんが「くもりびの/すべてがここに/あつまって/くる 鍋つかみ/両手に嵌めて待つ」と読んだことに対して、阿波野さんは「くもりびの/すべてがここに/あつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ」と読んだ方が「自然」であるのではないか、と疑問を呈した。
私は、初読で小島さんと同じように「あつまって/くる 鍋つかみ」まで読んでから、9音残っていることに気付いて引き返し、阿波野さんと同じ区切りで読んだ。
私は、そういうステップを踏んだ以上、阿波野さんの読み方には納得できる。
だが、小島さんの「もっとリズムで読ませてって思う」という批判にも納得がいく。
初読で思うようにならないこのまどろっこしさを、私は「韻律が悪い」と思うのだけど、どうだろうか。
(その場で何度も読み返すことができるのは、小説には不可能な短詩型文芸の特徴である。初読の印象と二度目以降の印象を比較、吟味、反省可能であるということは、韻律批評においても重要な特質になろう。)

・「韻律」と「韻律イメジ」について。
大雑把に言うと、「黙読で得た感覚は他者と共有不可能であるから、仕方なしに音読で得られる感覚を批評するのだ」ということだと理解した。
この消極性に何か引っかかるものを感じるのだけれども、この章は評論全体を支える肝心要であるから、準備もできていないのに不要に批判することは避けたいと思う。
音読・黙読をめぐる読書空間の歴史社会学的な研究をさらってからちゃんと言及したい。

・意味リズムについて。
『短詩型文芸論』においては、従来「声調」や「調べ」と言われてきた概念が5つに分解されているらしい。
そのうちの「意味リズム」を、阿波野さんは「単語ごと(あるいは文節ごと)に音数に区切れが入ることで、その単語内の音に癒着が生じて、等時拍性を崩すというものである」と説明している(下線筆者)。
しかし、私はつねづね、短歌の(ひいては日本語の)意味リズムは「単語」でも「文節」でもない何か名付けようのない単位によって生み出されているのではないかと感じている。

〈君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した〉(堂園昌彦)
の上の句を、阿波野さんは3・4・2・3・2・3・2という意味リズムで区切った。
しかし、そんなに慌ただしい韻律(イメジ)だろうか。
私は3・4・2・5・5(君も・あなたも・みな・草を見て・秋を見て)のおおらかな韻律(イメジ)を感じるのだけれど、どうだろう。
もしかすると、「それは『意味リズム』の定義からずれた恣意的な区切り方だ」という批判があるかもしれない。
しかし、8ページ戻って、阿波野さんの佐藤佐太郎の〈夕光(ゆふかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝(かがやき)を垂る〉の批評を確認してもらいたい。
「花みちて」は助詞の省略であるから、文節でこの歌の上の句を区切るなら5・3・4・2・3が正しいはずだが、阿波野さんはこの歌の上の句を「二句目から三句目へ3音、4音、5音と音の広がりの豊かさを感じる」と述べている(下線筆者)。 私はこの感覚に同意する。
阿波野さんも、意味リズムは単語・文節によらない何らかの単位によって定まっているということに、無意識に気付いているはずなのである。

また、このことに関係して、「意味リズム」と「句分けのリズム」(五七五七七のこと)の関係、すなわち句割れ・句跨りにおいての意味リズムの発生について、やや曖昧にされている印象がある。
阿波野さんは永井佑さんの歌を〈パーマでも/かけないとやって/らんないよ/みたいのもあり/ますよ 一円〉と句分けした。
「ア段音+っ、ア段音+んの強弱が字余り・句跨りをともなって現れ、『らん』にテンションがかかるのである」と評しているけれども、 「やってらんないよ」は文節で分けると「やって/らんない/よ」であるから、私には句跨りに感じられない。
また、永井さんの〈月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね〉の下の句は「3・6・2・3と分けるのが自然だ」と評されているけれども、「こっちだから」が3・3ではなく6で、「じゃあまたね」が5ではなく2・3で分けられる理由はなんだろうか。
思い切って言えば、この歌の意味リズムは、区分けのリズムとの兼ね合いにより単語という最小単位すら断たれて、私には「ぼくは・こっちだ・から・じゃあまたね」の3・4・2・5にすら感じられるのである。
(なお一応加えて言っておくと、「ぼくは」の前に8分休符が入るように感じられるので、私には「こっちだ・から」の句跨りは自然に読める。)

きっと、「意味リズム」は単語でも文節でもない、何か流動的な単位によって区切られている、とするのが穏当なところなのだと思う。
しかし、そうすると「韻律についての感覚は究極的に言えばひとそれぞれ」(140ページ)という、寂しい結論に陥ってしまって私には切ない。

書き始めたら、意外と長くなってしまった。
何か月歌を作ってないのかわからなくなってしまったぐらい、長いこと歌を詠んでないのだけれども、 やっぱりちょっと楽しいかもしれない。

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