三上春海「歌とテクストの相克」への批判

※2015年10月6日のブログ記事を移転しました


第33回現代短歌評論賞が『短歌研究』2015年10月号で発表されました。
受賞者は、北大短歌会の三上春海さん。
去年は本郷短歌会の寺井くんだったわけですが、作品だけでなく評論でも学生短歌会の存在感が増すというのは、単純にとても良いなあと思います。
僕も何か書きたかったところですが、「戦後短歌70年を現代の視点で考察する」というテーマが難しすぎて断念しました。
あと、卒論やら何やらでそれどころではなかった。

さて、その受賞者である三上さんから、先日、「原典を読んで(もしあれば)批判してください。服部さんの批判であればまず検討に値する(学術的に)ただしい批判であるはずなのでほんとうに期待しています。」と言っていただきました(https://twitter.com/kmhr_t/status/647389868671135744)。
(この前にもちょっと文脈があるのですが、面倒なので省略します)

ここ数か月ほとんど短歌に触れていないので私には力不足だと思ったのですが、せっかく期待していただいたので、三上さんの胸を借りるつもりで批判させていただこうと思います。
以下、10月5日の私のツイートを加筆修正してまとめ直したものになります。

三上春海「歌とテクストの相克」は、昨年の石井僚一問題を発端とした問いからスタートします。
つまり、「短歌は単に『テクスト』であるだけでなく、作品を作者から独立して存在したものとだと考えるテクスト理論が通用しない、『歌』としての側面があるのではないか」という仮説を立てるわけです。

歌が音読される時代から黙読される時代に移行したとしても、塚本邦雄や佐藤佐太郎、斉藤茂吉などは、短歌の(つまり「歌」の)「心で聴くものである」という側面を重要視していたことを、三上さんは指摘します。
その上で、「誰かの歌声が聞こえたとき、私たちはその歌声の向こう側に、それを歌った人間がたったひとり存在することをおもってしまう。誰か知らない声に呼びかけられたとき、まず、その声の持ち主が「誰なのか」を私たちは気にしてしまう。」「小説の基底にあるものは言葉だが、歌の基底にあるものは歌声である」と論じます。
短歌は近代になって黙読で楽しむものになっても「歌」としての側面を持ち続けており、だからこそ小説のようなテクストとは違って作者の存在を感じてしまう、というわけですね。
「ここには短歌を目で読む『テクスト』だとする一方で、心、たましいにおいては『歌』として聴くというアクロバティックな逆説が存在する」という文は、審査員の大島史洋さんも褒めてらっしゃいましたが、やはり格好いい。

しかしその後、「文体」の話になってくると話が怪しくなってきます。
特に、「作者の死」を論じたことで有名なロラン・バルトを引きながら、「作者に関する情報なしでテクストのみを与えられたとき、私たちはときにテクストの文体から、作者のパーソナリティについて想像を働かせてしまう」と述べるのは相当危うい論理です。
もちろん、短歌から聞こえてくるのは「文体の歌声」である、ということまでは納得できます。
しかし、三上さん自身が一段落前で述べているように、「文体」は「人間」(≒「作者」)の代わりに主体として定立したものだったはずです。

結局この評論は、なぜ短歌の読者が「文体の歌声」を「作者の歌声」として聞いてしまうのかということ、すなわち「誰かの歌声が聞こえたとき、私たちはその歌声の向こう側に、それを歌った人間がたったひとり存在することをおもってしまう」というときの「たったひとり」を「作中主体」ではなく「作者」として想像してしまう力学を、明らかにできていないように思います。
ここを明らかにできなければ、「歌」と「テクスト」という対比は格好いいレトリックだっただけなんじゃないかという気がしてしまいます。

もう一つ付け加えます。
最終ページに、「茂吉・塚本の時代までは、[…]文体の持つ肉声とは共同体の声でもあった」けれども、現在「歌人たちはそれぞれ個人の「個体の声」を目指して歌を作らざるを得なくなっている」とあります。
しかし、47ページの阿木津英さんの引用にあるように、「若い人たちの評論でも昨今は、作者と作中主体は別物といった前提でものを書いている」わけです。
年が若くなるにつれ(時が経つにつれ)、作者=作中主体という等式が成り立たないということと、「共同体の声/個体の声」の議論は、どう整合的に繋がるんでしょうか。
これは53ページの「生活者・塚本邦雄」と「歌人・塚本邦雄」の話とつながりがありそうですが、私には読み切れませんでした。

私がこうしてまとめている間に、私の批判に対して三上さんがコメントをツイートしてくださいましたが、三上さんも後ほどブログにまとめるそうなので、再反論はそちらを待ってからにしようと思います。
ツイートを散文に整理するのって案外時間かかりますね。
段落という区切りはゆるやかにつながっているのに、ツイートとツイートの間の区切りには断絶がある。

2個前の更新も阿波野さんの評論への批判だったので、何かすごく面倒くさいブログみたいになっちゃってますね。
ただ、短歌の評論って書いたら書きっぱなしで議論されることがほとんどないので、こういうコミュニケーションは絶対必要だと思うわけです。


※2018年6月20日の追記

2015年10月7日、つまりブログに記事を投稿した翌日、三上春海さんから批判に対する応答がありました。

毎日がケーキ

自分の批判とこのリプライを2年8か月経ったあと読み返すと、自分はなんて脇が甘い批判をしたのだろう、もっと深く建設的なコメントが可能だったのではないか、と恥ずかしい限りですね。


研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。