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唐詩と日本語

高校生の頃、ラジオ放送の「漢詩をよむ」をよく聴いていた。朗々と詠まれる漢詩の美しくも儚い感じのする世界に魅了されていた。

放送の中でも、特に「長恨歌」がお気に入りだった。唐の詩人・白居易の壮大な長編漢詩だ。唐代の玄宗皇帝の楊貴妃への愛のエピソードを詠んだもので、かなりの長編のため何回も分けて放送され、その都度録音をして何度も聴いていたほどだった。「傾国」が「美女」を表す表現など、漢語の独特な言い回しに興味を引かれた。中でも、最後の二人の永遠の愛を誓った言葉が出てくる思い出の場面は、今でも印象に残っている。
 在天願作比翼鳥(天に在りては願はくは比翼の鳥と作り)
 在地願爲連理枝(地に在りては願はくは連理の枝と為らんと)
呼応するように流れる言葉がたいへんロマンチックであった。

漢詩の中でも最初に唐詩に興味をもったのは、ベタではあるが漢詩の教科書などでもおなじみの杜甫「春望」である。もともと好きだった松尾芭蕉『奥の細道』の「平泉」で、「国破れて山河在り…」と出てくる唐詩ということで興味をもったのがきっかけだ。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵万金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

中国の文学の世界では、「漢文、唐詩、宗詞、元曲」といわれるように、唐の時代に詩が様式も内容も完成期を迎えた。その中でも最もエネルギーに満ちた盛唐の時代の代表的な詩人の一人が杜甫であると位置づけられる。

唐詩の面白さは、五言・七言八句の律詩や五言・七言四句の絶句といった厳密に決められ限られた文字の中で、自分の思い描く情景や心情をうまく込めるところにある。そういった内容だけでなく、漢字が幾何学的に整然と並ぶとともに、文字の対比や韻律などを踏まえた、見た目や聴いたときの形式的な面白さもあるところだろう。

ただ、日本人にとって、唐詩は、日本語の書き下し文で鑑賞することになる。中国語を学んだことのある自分にとっても、原文を見ても、やはり書き下し文を思い浮かべながら味わうのである。

国破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 万金に抵る
白頭掻けば 更に短かく
渾べて簪に 勝えざらんと欲す

原文のもつことばの対比などをできるだけ踏まえながらも、日本語のもつことば独特の流れが美しく、その中に儚くも感情のこもった情景を思い浮かべることができる。日本語は、平安時代の仮名文字の発明によって、一字一音式で日本語を表記できるようになり、漢文体では十分表現できなかった細かな心情の揺らぎが記せるようになったと言われている。唐詩の書き下し文は、そんな日本語の良さも存分に感じられる独特の文学であるともいえる。

唐詩本来の興味深さや面白さは、やはり漢語の原文で鑑賞できない限り十分でないのかもしれない。書き下し文で展開される日本語の世界と、唐詩が本来展開する世界は、微妙にずれて重ならないようなこともあるのかもしれない。しかし、唐詩を美しい日本語を通じて独特の面白さを感じられることや、唐詩の世界を身近なものとして共有できる楽しさを感じられることは、日本人にとってやはり幸せなことだと思う。

これからも、自分なりに唐詩も日本語も楽しんでいきたい。

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