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「内田樹による内田樹」を読み返す

 
 寝不足。お腹が空いた。気になってずっと頭から離れないことがある。
そんなときに凡ミスをやらかしてしまうことはないだろうか。
自分はよくある。と、いうかそういう状況になるとミスを起こす可能性が著しく高くなるのが自分でも分かっているので事前にそうならないように心がけている。

 「調子の悪いときが自分の実力」なんてよく聞く言葉だが、「自分を追い込める、そして追い込んでも打ち克つ(気概の)自分スゲー」的な自己陶酔をする、あるいは相手が気のいいことを利用してマウントを取る用途以外にはなかなか使いどころが思いつかない。 
例えば、メジャーリーグの大谷が空振りしたときや、病気で具合の悪いひとに、「調子の悪いときが自分の実力」と言うだろうか。

 こういうところが自己啓発的な言葉の限界だと思うし、それが自分がこういう言葉を積極的に使いたくない理由だ。

 同じような理由で、「極限状態にある人間の行いが『人間の本質』である」といった言説は受け入れがたい。
とりわけ自分自身を取り巻く「社会」について考えるときに、この考え方は採用したくない。 

 それでは常に自分以外の人間は信用できないという、少なくとも近代的な「社会」とは程遠い状況だと思うからだ。(もしかしたらそれが今現在の「社会」の雰囲気かもしれないが)

 そもそも「社会」に属しているのに極限状態に陥るのなら、それはその「社会」が「社会」の体を成していないということだろう。
「社会」を支えるための「本質」とは、「社会」全体が再生可能で永続的であるようになるものでなければならない。
続かない前提の集団なり環境を「社会」と呼べるだろうか。

自分にとって「極限状態の人間が『人間の本質』」論は、「極限的な状況での人間の反応」を出汁に、恐怖感を煽ることにによって(言っている本人も含めて)人の思考を停止してコントロールしようとするための詭弁としか思えない。






と、いつになくシリアスなことを書き綴ったのは、ふと思い出したことがあって『内田樹による内田樹』を読み返していたからである。


 この本を最初に読んだ当時の自分は、思想哲学という分野への興味から読んでいたが10年以上経った今、読み返してみるとにわかに具体的な現実問題への叩き台かのように見えてしまった。  
そのように見えてしまったというのは残念ながら、それだけ世の中がきな臭い状況に入ってきたと自分は感じているからだ。

 
 特に、内田氏が師と仰ぐレヴィナスに関連する著書の解説は真に迫るものがある。

自分は「ここ」にいてよいのか?自分は「ここ」に存在する権利があるのか?自分はそこにいる見知らぬ人に向かって無償でパンを求めることができるのか?~ 中略 ~人間は他者に「歓待」を期待することができるのか?               
 この「異邦人」の問いをレヴィナス自身は自分自身に差し向けました。

『内田樹による内田樹』p170

目の前に立つ「その土地の人」の理解も共感も絶した異邦人、無権利状態にある人間、それがレヴィナスが彼の哲学の原点に採用した「他者」という仮説的存在でした。

『内田樹による内田樹』p171



レヴィナスの説いているのは、「みなさんこうしましょう」という話ではなくて、「私はこうする」という遂行的な断言だからです。~ 中略 ~
でも、私はやります。私はきちんと成人として生きたいからです。人間という名に値するものになりたいからです。~ 中略 ~それがレヴィナスのいう「選び」ということです。「選び」とは特権のことではありません。義務の過剰のことです。

『内田樹による内田樹』p176~177

 誰も踏み出さないときに、「私があなたが探しているその人間です」と言って踏み出すことが「選び」ということです。他の人に紛れ込んで、「人間はどこですか?」という必死の呼びかけに答えずに、応答責任を逃れようとする人間は、そうすることによって、おのれの主体性の土台を掘り崩しています。

『内田樹による内田樹』p178

というのは、「選び」を拒絶するということは、「あなたがいなくなっても誰も困らない。あなたがいなくなっても誰もそのことに気づかない。~ 中略 ~という生き方(というより生きるのを止める仕方)を選び取ることだからです。そのような事態をこそ「主体性の危機」と呼ぶべきでしょう。

『内田樹による内田樹』p178


 幼児にはこの理路がわかりません。なぜ、自分が応答責任を引き受けなければならないのか、その理由がわからない。それは幼児が愚鈍であるとか邪悪であるとかいうことではありません。人間として未熟だからです。青い果物に向かって「なぜお前は熟していないのだ」と責めてもしかたがありません。

『内田樹による内田樹』p179


 この本には読み応えのあるところが多いのだが、他にも読みたい本があったので、全部は読み返せていない。
思いついたらまた、手に取って読んでみようと思う。


※個人的に気になるところが一点。 フェミニズムにある種、懐疑的な立場を表明する内田氏だけに(レヴィナスが、フェミニストたちによって批判されてきたことも由来していると思われる)フェミニストの中の個人や一部の意見をフェミニズム全体の意見のように取り上げ断じるような箇所もあり、そこは差し引いて読む必要があると思う。

 




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