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「いきいき」したゾンビになる  『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』


 この本はいわゆる一般的な「思想書」ではない。また、「こうやったら、おりられる」というようなハウツー本の類でもないということは、著者の飯田 朔さん自身がトークイベントなどでも折に触れて繰り返し強調されている。

それでは、この本は何についての本なのか? 

「なんでもない」人の視点から映画や小説、社会について考えてみたい。これがこの本の出発点だ。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p12

「なんでもない」人とは具体的にどういう人だろうか?

ぼくは、10年ほど前に大学を卒業してから就職をせず、30代のいまに至るまで実家で暮らしている。塾講師をしたり、ウェブなどでちょこちょこ文章を書いたりしてきたが、フルタイムで働いたことはなく、結婚もしていない。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p14

「なんでもない」人とは第三者から論評を求められる職業に就いていたり、肩書きや立場があったりというわけではないということでとりあえず良さそうだ。

 街中でしばらく会っていなかった知り合いとばったり出くわす。もしくは、家族の集まりで親戚と顔を合わせる。そんなときに相手から「最近どうしてるの?」と聞かれると、ぼくはつい「いやあ、何もしてないよ」などと答えてしまう。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p12

「いやあ、何もしてないよ」とは人を食ったような答えだが、著者はふざけているわけではない。

 例えば、最近「した」ことと言えば、
                                    
・(実家の)飼い猫にエサをやる。
・週1の当番で家族の夕ご飯を作る。
~ 中略 ~
 そう、ぼくは実際にはいろいろなことを「している」のである。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p13

 先に挙げたように「何もしてないよ」と答えるぼくだって、実際は「何か」を「している」のだけれど、その「何か」はどれも世間で交わされる「何してるの?」という質問への答えとしてはしっくりこない、どこか中途半端な「何か」ばっかりなのである。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p14         

「いやあ、何もしてないよ」という一見軽く感じられる受け答えの裏で、著者は自身の中にある答えと、世間的に考えられる答えとの距離を慮っていたのだ。 

そして、著者は世間との間に感じる「ずれ」から、ある考えへとたどり着く。

 けれども、この10年ほどを過ごすうちに思ったのは、こうした「何してるの?」という質問への答えとしてはふさわしくない、中途半端な「何か」は、人が生きていく上で案外大事なものなんじゃないか、ということだった。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p15

世間と共有するには中途半端で、あまりに些細で、極めて個人的なこと。
しかし、極めて些細で個人的なことであるが故に、その個人にとっては大事なものがあるのではないか。

と、ここでミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出した。

『モモ』では時間どろぼうにそそのかされた人たちが一秒でも時間を無駄にしないようにと気にして行動するうちに、お金や名声は手にするものの、冷たく無味乾燥な感覚に毒されていく様子が描かれていくが、今現在の社会の様子はなんか嫌なほどに似た状況になっているのではないか?

そんな状況に飲み込まれたくないと感じている人も少なくはないと思う。(自分もその中の一人だ。)そんなときに「なんでもない」人、という極めて個人的な立ち位置から物事を考えるというのはシンプルかつ、とても有効であるように思う。

 この本では2000年代前後から事あるごとに用いられ、ビジネスから個人の生き方に関することまで波及したと思われる、ある二つの「言葉」に対しての著者の考えが述べられている。ともに日本の社会の息苦しさを象徴するような言葉だ。
一つ目は「サヴァイブ」(「生き残る」)。

「サヴァイブ」の問題点は、「社会のここがおかしい」と気が付いた人が、「じゃその問題をどう解決していくか」という方向に向かわずに、結局「どう能力をつけて他人に勝つか」という元々自分が嫌な目にあった方向に回収されていく、一種の悪循環を生み出すことにあると思う。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p60

やはり、同じようにもてはやされるようになった自己責任論に対しても、不利な立場にある人までも「競争で負けて生き残れないのは自己責任」という考えを内面化してしまっているが故に、自らそのアンフェアな「しくみ」を補強してしまうと指摘する。

 二つ目の言葉は「何者か」。
社会の競争の中の勝者、成功者など「肩書き」のある有名人に対する批判や疑問提起は避けるべきという「信仰」に近い考えが、自己責任論に付随するかのように広まり、結果として権威や地位に従う風潮を強めるという問題があるのではないかと著者は言う。
 「何者か」への現代日本人の渇望については本の後半、全体の約半分を占める「朝井リョウ論」ともいえる「第2部 そう簡単におりられるのか?」で詳しく書かれている。 また、朝井リョウの作品の批評を通して、「おりる」ことを考えるうえで常に付いて回る「おりられなさ」についても考察されている。
ここでの「おりられなさ」とは、「おりる」ことへの障害になるものと、「おりる」ときにも捨てられないもの(=自分自身とは切っても切れないもの)という二つの意味が含まれているワードである。


改めて、著者のいう「おりる」とはなんだろう?

「おりる」とは、社会が提示してくるレールや人生のモデルから身をおろし、自分なりのペースや嗜好を大事にして生きる、という考え方だ。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p24

 
社会の主流と思われる仕事や生き方から離れて暮らす。的な話は結構昔からあると思うが、「おりる」と脱サラとかとの違いはなんだろうか?

いわば〝なんちゃって〟の「生き直す」「おりる」発想は世にあふれていて、例えば、転職や資格取得、~ 中略 ~……などいろいろ言われているが、気をつけないとそれらの中身は激務であったりして、過重労働の会社で働くのと変わらない場合がある。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p138、139

個人が「生き残る」から抜け出そうとして、また同じ地点に回収されてしまう状況が広がっている。だから、〝なんちゃって〟ではなく、「生き残る」に回収されないための、〝ちゃんと〟「おりる」思想を作っておく必要があると思うのだ。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p139

自分自身にとって不本意な流れからと、一見違う環境と見えても再び同じ(或いはさらにひどい)問題にぶつかってしまう状況のループの両方から離れられるように考えて行動することが「おりる」ためには必要なのだ。

始めにも触れたがこの本は「こうやったら、おりられる」というような答えが書いてあるわけではないが、今、まさに「おりようとしている」人にとっては、「この道は通ったな」とか「この場所は知らなかったけど見てみよう」とか思える「書きかけの冒険の地図」のようなそんな本である。

「一度死んで、生き直す」は、もう一度生まれ変わってグレートな人間になってやる、という考え方ではなく、~ 中略 ~ 派手ではないが自分のペースに即した、ゾンビなりの人生をもう1回やってみよう、と考え直す発想だ。
 ただし、これは世を拗ね、自分は日陰で生きていく、といういじけた感覚ではなく、こっちの方が本当は「普通」なんじゃないの?と世の中に問い直す、ぬけぬけとした一面を持つ思想だと思う。

『「おりる」思想  無駄にしんどい世の中だから』p139


      

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