『白鴉』32号最終校正と口唇口蓋裂症と畑山博とフラナリー・オコナーと『抗路』と『対抗言論』と朝鮮籍と

 先月27日、『白鴉』32号の合同校正をオンラインで行なった。掲載者8名が半分ずつに分かれ、それぞれで1頁ずつ、誤字脱字、よくわからない文章などを指摘していく。私の参加したグループは15時から開始。合計3時間かかり、まだ間に合ったので『ジャンク・ヘッド』を観に行った。もうひとつのグループは18時から開始して23時を過ぎて終了したらしい。さすがの熱量。これから4月10日までに最終校正を済ませた原稿が次々と返ってくるのであった。
 私の作品はその後、修正を済ませて、本日4月2日に全文音読して更に修正。もうこれ以上は触らない。触ってたまるか。

 30日、大島渚監督の映画関連でyoutubeのurlがtwitterのtlに流れてきたので飛んでみたところ、関連動画として「閲覧注意」「顔面奇形」「口唇口蓋裂で産まれて大人になったらこうなる」という文言のあるタイトルに1面モザイクのサムネイル画像が目に入り、一気に嫌な気分になって大島渚監督関連の動画を確認することなく閉じた。しょせん、人によっては見せ物小屋に押し込みたくなる対象なのだな、私は、などといったことを考えつつtwitterにこのことを書いたところ、2日後に動画をあげた本人からリプが入り、反射的にブロックしたくなったところを抑えて当人のtlを見たところ、どうやら口唇口蓋裂当事者であり、この疾患をひろく世間に知ってもらいたいがために発信しているのだと理解できたのですこしばかり対話。結果、まあ、私が危惧していたような人物ではなかったし、いまでこそtwitterのアイコンやらを実写画像にしているし、ポエトリーリーディング音源をアップしているけど、これらのことを実行するにあたって相当の勇気が要ったしずっとためらっていたことを思えばyoutubeてすげえなと。あと、私自身もこれまで口唇口蓋裂症について何作か書いてきたけど、そんなに目立つ部分の疾患でもないと思われ、美容整形すればいいやん、ぐらいに突き放されることが大半なので過激な手法へ行くのもわかることはわかる。「三口」もしくは「兎口」「兎唇」の人物としていろんな作品にちょっとだけ出てきはするものの、べつに重要な役割を与えられたりはしないし、知ってる範囲内でモームの「雨」ではとくに悪しざまに描かれている。主人公に据えたもので有名なところといえば1972年に第67回芥川賞を受賞した畑山博『いつか汽笛を鳴らして』ぐらいのものか。口唇口蓋裂症の疾患を持つ工員が主人公で、在日朝鮮人の兄妹と交流するうちにその妹に好意を寄せるが、その奇形ゆえに拒絶され、やり場のない怒りに苦悩する。被差別者が被差別者を差別しあうという構造だが、文章的にもけっして読みやすいものではなく、読後感もずっしりとした重みが腹に残る。同書収録の「はにわの子たち」では知的障害者児童を描き、この記事を書くにあたって検索していたところ見つかったブログによると『石の母』収録の「うたりたちの古里」ではアイヌの少女を描いているらしいなど、被差別者というかマイノリティに着目した作品が多いのだろうかという印象だが、宮沢賢治研究なんてものに手を出しさえしなければもうすこしは後世に残る作品が書けていたのだろうか。このブログを見る限り『いつか汽笛を鳴らして』のあのこなれない感じがずっと維持されていたのではないかとも推測されるが、すっかり読みやすい文章の書き手となってしまった私からすると今やコンプレックスの対象ですね。単に下手なんじゃないかという気もするけれども、誰も読んだことないから誰もそのへんの感想は教えてくれないのであった。
 話がだいぶ逸れたが、この「美容整形すればいいやん」という物言いが持つ、本人はそんなつもりなど一切ないであろう邪悪すぎる暴力性についてなんとか説得力あるかたちで書き記したいと長年思っていたことを思い出し、いつか書けるといいね。
 いったいなにが書きたかったかだいぶ忘れてしまっているけれども、私が口唇口蓋裂症の疾患を持つ主人公を描いた作品はこのウェブサイトにある中で「冬」「蟹蠢」「三十歳」の3作が無料で読めます。2002年の『白鴉』デビューを飾った「夜明けの岸辺」もその系統に入りますが、データがないのでアップできません。先の動画の人も当事者の母親からわりと非難を受けている印象でしたが、私の作品も当事者の母親から嫌われており、まあ、それは仕方ないかなと考えています。親としてはおなじ疾患を持つ主人公が幸せになってもらいたいだろうし、それは理解できるところではありますが、対象は何であれ、当事者が自分とおなじ困難を抱えている主人公を求めるとき、お仕着せの「救い」を求めるとは思えないという私自身の個人的な意見です。そしてここでフラナリー・オコナー『秘義と習俗』でお馴染みの一節を引用します。

 人がよくいう不満に、現代作家は希望を持っていず、その手になる世界地図はとうてい我慢がならない代物だ、というのがある。これに答えるには、希望のない人間は小説を書かないというしかない。小説を書くことは、恐ろしい経験である。その間に、髪は抜け落ち、歯はボロボロになることがよくある。小説を書くことは現実の逃避になるだろうと、暗に言う人たちには、私はいつも非常に腹がたつ。創作は、現実への突入なのであって、体にひどくこたえるものなのだ。もし小説家が、書いている間、金銭報酬の希望によって己れを支えているのでないとしたら、あとは、魂の救済の希望によって生きていくほかはない。でなければ、本当に書く苦しみに負けてしまう。 希望を持たぬ人びとが、小説を書くことはない。それどころか、小説なぞ読みもしないといったほうが適切である。彼らは、勇気がなくて、あるものを長いこと見ていられないのである。絶望に至る道は、いかなる経験をも拒むことであり、小説は、もちろん、経験を持つ一つの方法である。

 まあ、私がひさしぶりにこの一文を読みたかっただけですが。あと、大島渚監督の動画がなんだったのかは忘れました。探してもいません。

 せっかく買った『抗路』8号をなかなか読めないでいるが、先日、大阪文学学校の人が書いたエッセイが載っていると知って急いで読んだ。方政雄氏という、湊川高校の教員をされているかたらしく、湊川高校の教員の文章を私はおそらく3人分読んだことになるけれども、書き記したくなる環境なのはよくわかるなと。ほかにも『対抗言論』vol.2を「在日コリアン文学15冊を読む」という座談会目当てに買った。目的の記事をゆっくり読んでいる段階だが、康潤伊氏が『抗路』7号で私に鷺沢萠を教えていただいた人だとわかるのにすこし時間がかかってしまった。『ビューティフル・ネーム』面白かったのでほかのも読んでみたいところ。李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』も取りあげられており、その批判内容に共感。だから第一章がつまらなくてしょうがなかったのであった。康潤伊氏のtwitterによると、崔実『ジニのパズル』論が自信作らしいのでぜひ読んでみたいのだが、検索してもヤン・ヨンヒ『朝鮮大学校物語』論しか見つからないのであった。こっちはこっちで面白い小説だったので読んでみますが。
 31日ぐらいから『朝鮮籍とは何か』を読みはじめ、122頁まで読んだあたりで本日4月2日夜に行なわれたチェッコリ主催のzoom講座を視聴。本書の議論の流れがよくわかったのと同時に、なんとなく文庫待ちを決め込んでいる『パチンコ』の問題点を知ることができた。朝鮮籍と北朝鮮はちがうよ、とちょっと勉強すれば私にでもわかることなんだが。残念なことだなあ。そしていつかチェッコリへ行ってみたい
 朝鮮籍ということでずっと読みたいけど品切れで、ぜひ復刊してほしいと思っていた中村一成『ルポ 思想としての朝鮮籍』を借りに図書館へ行った。正確に言うと借りていた『沙流川──鳩沢佐美夫遺稿』を返しに行ったついでに探したところ、文京沫『在日朝鮮人問題の起源』というのを見つけ、一緒に借りてしまった


さいきん読み終えた本
『金史良作品集』(理論社)

さいきん観た映画
『夏時間』(ユン・ダンビ)テアトル梅田
『地獄の警備員』(黒沢清)第七藝術劇場
『世紀の光』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)第七藝術劇場
『光りの墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)第七藝術劇場
『ジャンク・ヘッド』(堀貴秀)第七藝術劇場
『あのこは貴族』(岨手由貴子)4回目。テアトル梅田
『スタイル・ウォーズ』(トニー・シルバー)シネマート心斎橋
『ミナリ』(リー・アイザック・チョン)TOHOシネマズ梅田


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