白鴉例会とパトリシア・ハイスミスと石沢麻衣と『ロスト・キング』とてらさわホークと『福田村事件』批判と自死した親友と

 23日、白鴉例会。3作。作者が狙ったかどうかわからないままパトリシア・ハイスミスのカタツムリの話をするも、たぶんおおいに外していた。まあ、いつものこと。終了後はそのまま帰宅。石沢麻依『月の三相』を帰りの電車内で読み終える。最寄駅近くのコンビニで適当に買って食べる。
 石沢麻依作品といえば『貝に続く場所にて』であきらかにプルーストオマージュと思われる場面を撮っておいてブログのほうにはあげていなかったので、ここに貼っておく。貝の象徴と記憶となるとやはりこれは外せないか。『月の三相』も、モチーフこそ月と仮面となり、惑星という点では月も前作と共通するものの、これらを軸に過去と現在、現実と幻想が交錯する世界観は大変に楽しませていただいた。101ページに主に白人の行なうアジア人差別の所作が出てきて、おっ、となった。能面ももちろん出てきたけど、能自体がこの作品の過去と現在、現実と幻想(または幽玄)という要素とだいぶ重なるところはあるけど、そんなには出てこなかったな。いつか再読したい。

 翌日、映画を観に出かけたところ、本を持って出るのを忘れていた。そろそろ五巻を読み終えて止まっていた『火山島』を再開しようと考えていたのに(あと二冊)。観た映画は『ロスト・キング』。拙作「呪われて死ね」のタイトルの元ネタであるシェイクスピアの戯曲『リチャード三世』で描かれもするリチャード三世の姿が歪曲されて伝わっているという見地に立ち、さまざまな文献をたどってその遺骨を発掘するという、実話に基づいた物語。遺骨発見のニュースはなんとなく記憶に残っていたが、10年ほど前だったのですね。この発見のおかげで汚名は晴らされたわけだけれど、シェイクスピアの描いた悪役然としたリチャード三世もキャラクターとして魅力的と考えていたので、複雑ではある。でもあらためて事実をもとにした歴史劇が創られるのならそれも読んでみたいなと。
 その帰りに丸善ジュンク堂。前々から気にしていた徐京植評論集の第三巻を購入。渡邊英理氏が崎山多美論を寄せているやつと迷った末の決定。一巻、二巻もいずれは。しばらく『火山島』とこれを持ち歩くことになるな。
 それにしてもマーティン・マクドナーの戯曲がハヤカワ演劇文庫に入ったりしないものか。入らなくてもどこかで戯曲出してほしいなと。まあでも小説以上に(下手したら詩よりも)売れないからな、戯曲…知らんけど。

 てらさわホーク氏のyoutube動画観ながらこのブログ書いていたら『福田村事件』のあれについてやはり批判していたのでやはりこの人は信頼できるなと思った。竹やりの殺傷能力そこまでじゃないやろというのは言われてみればだった。てらさわ氏が触れていないところをtwitterで私は批判しているけれども、フィクションだからとかじゃねえだろという批判の方向性としては重なるところありか。

 以前に書いたブログに関連したことについてtwitterで書いたことをなんとなくこちらに転載しておきたくなったので書きます。S氏と西田辺の人と出てきてもうひとりいるようだけどそれは、という質問については(されてないが)、その人は「雪の日」に出てくる人ですね。これについてはいずれちゃんと書いて私自身を成仏させたい。当人のことは知らん。

 このブログ内の「自死した親友」について、S氏であるかとの問いを受けたが、メキシコと沖縄のミックスであり、オウムに入信して破門されるまでヤクザであり、火炎瓶を投げて逮捕、出所したその足で文校に入学し、最後には中国大使館の前で焼身自殺して、検索したら彼を讃える右翼団体のウェブサイトが出てくるSことS袋氏について書くなら「自死した友人」とするだろう。そのときには縁は完全に切れていたが。 それなら「元友人』ではないかと指摘されるだろうが、なんかどっかで飛び降り自殺した別の「元友人」がいるので、それとの区別。西田辺に住んでいた「自死した親友」はそのふたりとまったく別の人物。 いまは友人は皆無なので、友人が自死することももはやない。



さいきん読み終えた本
石沢麻依『月の三相』(講談社)

さいきん観た映画
『シークレット・サンシャイン』 (イ・チャンドン)シネ・リーブル梅田
『イ・チャンドン──アイロニーの芸術』(アラン・マザール)シネ・リーブル梅田
『ポエトリー──アグネスの詩』(イ・チャンドン)シネ・リーブル梅田
『ロスト・キング──500年越しの運命』(スティーヴン・フリアーズ)大阪ステーションシティシネマ


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