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ハードコアパンクと私 12

1985年。

東京でひとり暮らしを始めた兄はハードコアパンクバンドを結成し、
髪を金色に染め上げました。

今でこそ金髪の若者なんて珍しくないですけど
1985年に金髪にするのはまだまだ気合が必要な頃です。
街宣車で演説する右翼から「こら!そこの金髪!この非国民!」なんて
罵声を浴びせられる時代です。(このエピソードはアナーキーのマリ氏)
詳しく聞いたことないんですけど仕事とかどうしてたんでしょうか。

アナーキーのマリ氏(GASTUNK、Tatsu氏のツイートより)

兄が組んだバンドは女性ボーカルでカムズタイプのバンドでした。
スタジオでの練習テープを聴いたことあるんですけど
このまま出してもそこそこ売れるんじゃないかってクオリティでした。
(実際レコード化しようかって話もあったらしいですけど
頓挫したようです)

兄のバンドは1年弱位で活動を停止しました。
今考えるとその原因は僕にあったのかもしれません。


1985年の春。

安いギターセットを入手してギターの練習を始めました。

とりあえずの目標は秋の文化祭のステージにバンドで出る、でした。

「シゲオ君、バンドやる?」
「やるやる!ドラムやろうかな」

僕がギターでシゲオ君がドラム。
あとベースとボーカルだな。

この頃、昼休みとか放課後とか暇さえあれば学校から
徒歩一分のところに住んでた吹奏楽部のハヤシ君の家でよく溜まって
ろくでもないことしていました。

ハヤシ君の部屋は豪華なステレオセットがあったので
「これかけて」ってハードコアパンクとか日本のロックとかを
流してもらってました。

ハードコア不法集会V.A.(1984) よくかけてもらってました。

ハヤシ家に溜まってたメンバーで旅館屋の息子、マサシ君が
パンクに興味を持ち、ボーカルをやることになりました。

そしてパンクにはあまり興味を持ってなかったですけど
バンドやりたいって僕と同じ中学のヒロキ君が立候補してきました。

ヒロキ君もギター持っててギターやりたいとのことだったので
僕はベースになりました。
パンクバンドのベーシストはカッコいい人多かったですしね。
シンタロウ氏とか、ポール師匠(シムノン)とかさ。
ベースは借り物でした。

Vo.旅館屋の息子マサシ
Gu.同中(おなちゅう)ヒロキ
Ba.僕
Dr.竹中(たけちゅう)シゲオ

なんとかバンド結成です。

GISMとかGAUZEとかGAIとか、ハードコアなら
"G"から始まる名前がいいなと思って
"G"から始まる英単語をバンド名にしました。


ザ・スターリン シンタロウ氏


「ア・ホーマンス」のポール師匠 背中は石橋凌氏(ARB)灰色の水曜日とか歌ってた頃


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