「尊敬」なんて軽々しく言える言葉じゃない
本を読む時に、気をつけていることがある。
それは、どれだけ著名な本であろうと、書いている相手は人間であることを忘れないこと。
どれだけ著者の名前が売れて、どれだけカリスマとしての評価を受けていようとも、全知全能の神ではない。所詮は人間なのだ。
感情に左右されて物事の一面しか見ることができない時もあるし、間違いもする。
その本の内容が、そのタイミングでは一面を捉えていたとしても、時代や土地を超えて、その内容が全て正しいということはないのだ。
そりゃそうだろうと思うかもしれない。
ではなぜ、こんな当たり前のことを言うのか。
それは、僕の中に「誰か、信頼できる人の思想に寄りかかりたい」という欲求が明確にあるからだ。
だから、ちょっとでもすごい人がいれば、自分の中でその人を神格化し、「その人が言っているから」として、考え方を安易に飲み込んでしまう。
それはとで楽なことだ。
楽をしたい怠惰な僕は、いつも心の中で、神格化できる存在をどこか心待ちにしている。
でも、残念ながら、そんな存在はいない。
それを確認したければ、哲学史をちょっとでも見ればよくわかる。
プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、カント、、、、今まで数えきれないくらいの天才的哲学者が出現してきた。
しかし、彼らの思想は、当時から今まで、たくさんの批判を受け続けている。
そして、またその批判から新たな思想が立ち上がり、そしてまた批判を受ける。こうして思想は発展(あるいは循環)してきた。
結局、神格化できる存在や非の打ちどころのない思想など、今まで出てきたためしがないのだ。
だとするならば、とある人の考えを本当に理解するというのは、その誤りや限界を指摘できてこそ。
理解するということは、無条件に信じるということではなく、その限界を知っている、ということと同義なのだ。
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