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回り道しよう

今日は社会と自分とのすり合わせのようなビッグイベントがあったのだけど、自ら希望して臨んだのにさほど準備をせず、まあ自分のなかにあるものを伝えてこようとふらりと向かった。数十分のそのイベントはさほど苦しいものではなくて、今までの人生で何度かやってきたようにすり合わせをしてそれなりにたのしく終えたのだけど、終わってからの急激なもやもやが想像以上に大きくてなんだか人生がよくわからなくなってしまった。

すきなものは音楽、本、映画、散歩。物事を順序立てて伝えることは苦手で、感想や報告がいちいち抽象的。言葉遊びがすきで、簡潔に伝わる表現よりもユニークで広がりのある表現を求めがちだし使いがち。効率性や正確性よりも、ある種の豊かさを追ってしまう。

根っこにそれがあるから、わたしの話はいつもすこし要領を得ないとおもう。わかりにくい言い回し、質問に対して最短距離ではない回答のしかた。普段はさほど困らないのだけど、まっとうな人間であることを伝える際にはかなり困ってしまう。いや、そもそもまっとうな人間である自信もそんなにない。そこは普段無視しているのだけど、端的な回答を求められる場面に遭遇するたびにムンクの叫び状態で「ま、まっとうになりたい…!」と心が悲鳴をあげる。

人と接することはすきだけど、接するにあたりもう少しフォーマルな受け答えをきちんとできるようになりたいなあと思う反面、こういう人間をそれでも認めてくれるひと・環境が望ましいよなあというきもちもあり、うーんうーんと悩んだり悩むのに疲れたりした頃、なんとなく川上未映子のエッセイ集を手に取る。

彼女のエッセイは最短距離とは真逆で、最初の短い一篇を読んで「ああ好き…」と感情がわいてPC起動してキーボードを叩きはじめてしまう。そして「根っこがこういうところで息してる人間だもんなあ、わたし。」と腑に落ちる。すきなんだもん、回り道。ちょっとおもしろい表現。それぞれの等身大の伝え方。わたしの回り道はわたしの等身大なんだもん。まあその等身大が時折社会にそぐわないなって痛感するから辛いんですけど、痛感するとき以外は憎めないっていうかかなりすき。だから最短距離と回り道はいつも火花を飛ばしてて、まあ結局回り道に戻ってしまうんですけど。一緒に回り道楽しんでくれるひととできるだけ一緒にいたい。甘えかもしれないけど、そこはごめん、甘えたい。それがたぶんわたしの生きるための重要なエッセンスなんだよな。回り道楽しんでくれるひと、この指とーまれ。あーあ。


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