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珈琲と日本語で休日のゴール

やすみの日。
吉本ばななのキッチンを数日前に読み終えたら彼女の日本語の世界に引きこまれてしまったので、今度は王国を、とりあえず1つめの作品だけ買って読んでいる。
キッチンでも最初数ページで何度も目をぱちくりさせた(ような気持ちになった)くらい心を奪われてしまったけれど王国もやっぱりそのパターンで、読み始めてからまもなく、幾度となく心が興奮する。
次々に出てくる金字塔みたいな日本語はわたしの気持ちをとてもうつくしいものにしてくれたけれど、キッチンで出会ったよい日本語を心に留めきれていないことが妙に気になってしまって、王国を手放して万年筆とノートとキッチンを手にして食卓へ向かった。

こんなときは珈琲だ。きれいな水色のカップを部屋から引っ張り出してくる。クラムボンをBGMに、先月買った珈琲豆を挽きながら少し多めにお湯を沸かしていたら、母がやってきてゆず茶を飲むというので、ちょうど沸いたお湯を譲る。彼女のマグカップはわたしのカップの倍あることをすっかり忘れていて、おかげでわたしの珈琲につかうお湯がなくなってしまった。ええそんなに使ったらないじゃん!と適当にふざけてぷんすかしながらもう一度お湯を沸かしてようやく珈琲にたどり着く。

「その本わたしも昔読んだ。もう忘れちゃったけどね。書き写してるの?」
「昔って50年くらい前?」
「そんなわけないでしょ。30年くらい前かなあ。」
「同じくらいの時期だ。そうそう、ちょっと書き写さずにはいられなくって久々に書いてる」
「そんなに面白い話だっけ?」
「面白いっていうか…ストーリー云々より日本語がすごくいい。こんなのわたしには書けないっておもう。」
「ふ〜ん。わたしも最近書き写ししてるんだよね」
「なにを?」
「新聞の一面のコラム。」
「やっぱり。そんな気がした。適当なノートに書いてるの?」
「ううん」
「え、売ってる書き写し専用のノート買ったの?」
「ううん、これこれ(仕事で使ったプリントの裏面にボールペンで書き写した紙の束)」
「なんだめっちゃ適当なやつじゃん…」
「書き写してるうちにわかんない言葉が出てきたり、今日のは何言ってるか全然わかんないなとか、今日はすごく面白いとか、そういうのがあってねえ、たのしいよ」
「ふ〜ん…」

母はテーブルに置いていた読みかけの本を手に取り、ゆず茶とともに読み始める。わたしはページをめくっては言葉を見つけノートに黙々と書き写す。外で除雪機を稼働させていた父親が戻ってきてソファに横になる。クラムボンをBGMにそれぞれの時間を過ごして10分ほど経った頃、母は読書を終えてソファへ移動しやりかけの裁縫を始めた。少し経って今度は弟が食卓にやってくる、貰い物のチョコレートドリンクの粉末をお湯で溶かして母の座っていた食卓の椅子に腰掛ける。珍しく家族4人で居間に集まり、BGMはクラムボンというよい時間になった。

しばらくして母と弟は夕食の買い物へ出掛け、父親はソファのまま、わたしも変わらず珈琲とクラムボンと書き写し。

書き写しをひたすら続けていると、それは記録でも記憶でもなくて学びに近いところにあるようなものにおもえた。ノートに書くことは記録にもなるけれど、いつでもピンポイントで読み返せるように、という目的での書き写しではないし、一度書き写しただけでは覚えることなんてできない。どうして書き写しの衝動に駆られるのかと考えると、よい日本語を書いて味わうことの楽しさのためでしかないのだとおもう。字を書くことがすきで日本語がすきで目の前によい日本語があるとなれば右手にペンを持ちたい、ただそれだけの話みたいだ。そしてよい音楽とおいしい珈琲があればなおよい。日本語に向き合う質のよい時間がとにかくすきだ。1時間半やっても全体の半分までしか終わらなかったわくわくと果てしなさ。しあわせだなあ。書き写しという名の写経はもうすこしつづく。

#日記 #読書

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