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1月9日、主日礼拝メッセージ(サマリア人の隣人になった宿屋の主人~共感と協力)&共育のひろば

今日の主日礼拝の
メッセージ箇所は
ルカによる福音書10-30~37
「善きサマリア人の譬え」
として有名な箇所でした。

要約すれば、ある旅人が
追い剥ぎに遭い
半殺し状態で倒れていました。
そこに、祭司とレビが来て
気付いたが
見て見ぬふりをしてしまう、
そこにサマリア人が来て
その旅人を介抱するために
宿に連れていきます。
でも、サマリア人は用事が
あったのか
その旅人を置いて
宿主に銀貨を渡し
介抱を委ね旅立ちました。
イエスさまは
「私の隣人は誰ですか?」
と訪ねた律法学者に
この譬え話の中で
誰が旅人の隣人かと
聞かれます。
律法学者は
「その人を助けた人です」と
答えました。
イエスさまは
「行って、あなたも
同じようにしなさい」と
言われました。


でも、私を含めて多くの人は
善きサマリア人が
〝ひとりで〟
この追い剥ぎに遭った
旅人を助けたように
錯覚だとか、
誤解していたかも知れません。
そして、それがキリスト者の
模範のように思い、
「とても出来ない」
「難しいな…」と
プレッシャーやストレスを
感じていたように思います。

でも、今日のメッセージで
追い剥ぎに遭った旅人を
助けたのは
善きサマリア人だけでなく
宿主、そして、おそらく
医者だとか、宿の下僕だとか
聖書には登場しない
たくさんの人がいて
〝チーム〟となり
助けた
のだと牧師先生は
おっしゃっていました。

私は今まで何でも
それが人助けであっても
ひとりで抱えこんでしまって
ひとりで苦しみ
袋小路に迷い込んで
間違った的外れの選択をし
にっちにもさっちにも
いかないとこまでいき
大きな失敗をし信頼や
側にいてくれた人たちを
無くしてしまっていました。

人、ひとりが出来ることには
気持ちはあっても
限界があります。
また、ひとりでは
私のように判断を
間違えてしまいます。

でも、誰かに話し、
相談し、助けを求め、
2人、3人…チームに
なっていけたら
回復出来る力は
何倍にもなっていくし、
直接の助けでなくても
祈りの力も
その回復の力に
増し加えられます。


私が大失敗して
何もかも失ったときも
クリスチャンだった姉や
姉の教会の方々の祈りが
あったからこそ
今の教会に結びつき
洗礼を受けることができ、
牧師先生、教会会員の方々に
あたたかく受け入れて
いただけています。

まだまだ課題や問題も
ありますが
もう、ひとりで
抱え込まないで
神様を中心とした
〝チーム〟に助けを
求めていきたいと思います。

また、私も
助けられるだけでなく
〝チーム〟の一員として
自分の出来る範囲での
助けや祈りをしていきたいと
思いました。

大事なのは神の家族として、
連携していく、
チームワークで心を寄せ
無理なく関わっていくこと
だと牧師先生はおっしゃり、
私には、これが必要なんだと
思いました。


牧師先生は
〝私たちは一人ひとりに
違いがありますが
それは分裂や中違いを
産むためではなく、
寛容さであり、豊かさです。
だからこそ、
それぞれの人を受け止めて
そして、共に祈り合い、
進んでいくことが
出来るのだと思うのです〟
そして、〝私たちは
独りではありません。
イエスさまが
共におられます。
そして、この交わりの中に
永遠の命が生まれることを
共に受け止めて、
歩んでまいりましょう〟

結んでおられます。

礼拝の後は月1の
〝共育のひろば〟という
聖書のまなびがありました。
この〝共育のひろば〟は
牧師先生や誰か先生が
教えるという一方通行の
学びではなく、
聖書を中心に置いて
それぞれが感じたこや
気づきを語り共有する
みんなのまなびです。

今日はコリントの信徒への手紙
第二の1章で
ある方はコロナ禍では
寄り添って苦しみを
分かち合うのは難しい
寄り添いたいが
離れないといけなく辛いと
おっしゃり
でも、違う方は
距離は離れないと
いけないけど
心の距離は寄り添い
祈りましょうと
私もそう思いました。

私は7節の
「あなたがたについて
わたしたちが抱いている
希望は揺るぎません。
なぜなら、あなたがたが
苦しみを共に
してくれているように、
慰めをも共にしていると、
わたしたちは
知っているからです。」

1番心に残ったと話し、
今日のメッセージの
〝チームワーク〟が
大切なことに気付いた
今まで何でもひとりで
抱え込み失敗してきました
と話したら、
もう、ひとりで
抱え込まなくて良いからね
分かちあって
祈り合いましょうと
おっしゃってくださり
嬉しく感謝しました🍀

今日の礼拝で歌った賛美
「きみの賜物と」

みなさまの一日が
守られますように🍀

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