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さみしいねえ

鬱がやってきた。わたしの場合は鬱になると世界の彩やかさがなくなって、全ての物事が意味を失って、自分ひとりでは立っていられないような気がしてさみしくなる。世の存在意義について考え抜いた哲学者ってこんな気持ちだったんだろうか。

世界が全く彩やかじゃない。色はもちろんわかる。わかるけれど、ビビットじゃないというか、鮮明じゃないというか、ただの色見本を見せられているみたいに、感情がそこに伴わない。全部がプラスチックで作られた街にいるみたいに、色は色として存在しているだけで、そこに自然を感じたり感動を感じたりしない。

世界が意味を失ってしまった。この前まで、「誰かのひかりになりたいから勉強をする」などと言っていたが、こうなってしまうと全てがどうでもいい。だって世界に意味はないのだから。全てはただ、分子の運動の中で、起こっては過ぎていく出来事でしかない。生きる意味ってなんだろうか?

この「世界が意味を失う」症状はかなり深刻で、本当になぜ生きているのかわからなくなる。わたしが死んだら悲しむ人がいるのもわかる、わたしが生きることで生まれる幸せがあるのもわかる。でもその悲しみや幸せに、何か意味があるのかがわからない。悲しくても、幸せでも、その感情に、何か意味があるのだろうか。

将来はカウンセラーになって、誰かのひかりになりたいと考えている。でも、もし患者が"本質的に"、「なぜ生きているのか」を問うてきたらわたしは何も返せないかもしれない。だって知ってしまっているから。この世にはなんの意味もないという体感を、知ってしまっているから。

これはあくまで"どう感じるか"の話で、今日の朝日を見て感動する人もいるだろうし、木々の彩やかな緑にエネルギーを感じる人もいるだろう。そして、それらを感じない人もいるという話だ。

わたしは今、とてもひとりでは立っていられないような気持ちになっている。誰かが横で、わたしの代わりに世界に感動してくれないと、この世には意味がないのだという思考を否定できそうにない。呑み込まれるギリギリで耐えている。これはただの一過性の鬱だと。一生こうなわけではないと。

美しいものが見たい。怪獣のバラードの「海が見たい、人を愛したい」という歌詞が好きだ。わたしもそう、海が見たい。人を愛したい。でも今は、頑張って海へ行ってもし感動できなかった時のさみしさに耐えられそうにないから、大人しくベッドで頓服を呑んでおくよ。

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