5/9 人間は日々変わるということ
いつも以上にぐだぐだなブログです。書いてたら2000字言ってました。推敲なしです。
養老孟司の思想が今の自分を成長させるのにフィットしていることを発見し、喜んでいるというのが本稿で書きたかったことです。
以下暇な人だけお付き合いください。
ゲームに飽きてしまったので最近夜また暇になって来た。
自分はFPSのランク戦をやるのが好きで高校1年からずっと狂ったようにプレイして来た。これは恐らく小中と親からゲームを禁止されて来た反動だったんだと思う。
しかしながらコロナ禍を経てメンタルをやられ出してから思うように楽しめなくなってしまった。
おそらく最近ゲームにハマり出した人々はコロナの期間を経てという感じだろうから、そういった時代の流れとは逆になってしまった。図らずとも逆ばってしまったというわけだ。
とにかく、ゲームをしなくなったことで生まれた時間を何か別のことに割り当てることを探っているのが昨今の自分である。
そんな中gwで出会ったのが養老孟司の「壁」シリーズである。
壁シリーズは全6冊。
gwの真ん中くらいからハマり出して、昨晩ようやく2冊目の死の壁まで読了。
今日は3冊目の超バカの壁を2章まで読んだ。
gwを総括する記事にも書いた通り、壁シリーズを読破するかバカの壁1冊を繰り返し読むかして骨肉にしてからしっかりとした感想文を書こうとは思っている。
が、今日はその予行練習ということで感想を書く。うろ覚えの内容もあるから、氏の主張を誤解したままかも知れない。悪しからず。
バカの壁を読んで自分が特に印象的に思ったのは次の二つの主張だ。
①自己の中心(個性)は意識ではなく身体に宿る
②身体は日々変化する。ゆえに自己もまた時事刻々と変化する
まず①について。
昨今はニューロダイバーシティだなんて言って、脳の認知や機能にも個性(多様性)があって然るべきだという主張がなされる。
これは人間のアイデンティティを意識に置くことに依拠している。
しかし養老孟司は個性は身体に宿ると主張している。この主張は、人間が社会の一員である限り脳や意識は共通性を追求して動くはずだという理屈に基づいている。
集団に属する限り、その中では共通理解を持つことを求められ、本能的に我々はそれに従う。意識や思考の面で何か個性を発揮してはみ出すようなことがあれば生きていくことが困難になるはずである。だから脳はその基盤(マクロ的には脳のネットワークのダイナミクス、ミクロには神経細胞・遺伝子)の差異があっても言語や文化・伝統によって意識の統一を図ろうとするはずだ。
個性なんてものはすでに身体に宿っているから気にすることはない。みたいなことを述べている。
この考えを取り込んでからは、意識を中心として捉えてそこに個性を見出そうとすることは何か生きづらさを生んでしまうのだと感じた。
多様性は歓迎すべき概念だと自分も思うけれど、その多様性を意識に求めることは社会のあり方と矛盾する方向にある。だから意識を中心に自己を確立しなくても問題ないというようにわたしは理解した。
(個性が身体に宿っているという理屈の部分について、本稿での説明は大幅にカットしているので論理の飛躍があるように思われるかも知れない。しかし原著ではそれなりの説明がなされているので読んでください🫨)
続いて②について。
万物は流転するとか、行く川の水は絶えずして〜とか、過去の人々は物事が常に変化していく様を捉えていた。
が、人々は意識を自己の中心に置いているために、自分が不変の存在だと誤解し出した。
生き物の本質は身体にあり、その身体は日々の生命活動で作り替えられていく。ゆえに昨日の自分と今日の自分は異なると考える方が自然だ、というのが②で言わんとしていることだと自分は理解した。
たしかに、自己の確立とか自律とか言ったときに、アイデンティティを意識に求めようとする傾向が自分にもあったように思う。
上京してからというもの、それまで地元での自分と東京での自分とで環境に応じたキャラクターの演じ分けがあった。それに自己の同一性のなさで大変な違和感を覚え苦しんだ時期もあった。
この苦しみは「意識が常に自分の中心であり、個性であり、ゆえに不変のものだ」と誤解していたからに違いない。
養老孟司のこの考え方で自分の中にあった蟠りが一気に解消したように思えた。
身体は日々変わるものでそこに宿る意識もまた日々変わる。意識に同一性を求めたってそもそもそんなものないのだから仕方がないということで解決したのだ。
本稿の冒頭の話に戻るが、10年も狂ったように楽しんでいたゲームがつまらなくなって来たことで再び自己の揺らぎを感じて不安に支配された時間があった。
やはりこれは意識が個性で不変なものというら前提を持っていたせいで、ナンセンスだ。
ゲームがつまらなくなったからとて自分が崩壊したわけではないし、一々そんなことで不安なんて感じる必要なはないということだ。
身体もそこに宿る意識も変わって然るべきで同一性なんか保証されていないのだから。
養老孟司の思想はアイデンティティとは何かという考えを一つ前進させてくれた。
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