■弟1章 「超」が付くほどの人見知りから目立ちたがりに変身


・幼少期から自閉症だなんて

昭和42年10月5日昼間に大阪府寝屋川市の病院で産声を上げこの世に生まれてきました。
母親は二回目の出産で兄の出産時に相当な痛みを伴ったため私の時には無痛分娩で生んだそうです。当時母親は30歳で父親は33歳でした。私は目がめちゃ大きくてとても可愛らしく、みんなにとても喜ばれたようです。母親のおっぱいを飲むときにはいつも満面の笑みをこぼしていたようで、もちろん今の記憶にはありませんが生まれて初めての貧乳との出会いがここにあったのです。

母親が産後の体調があまり良くなく、背中にヘルニアを発症して手術をしたので私は一歳になるまでの数か月間は母親側の祖父母家庭に預けられて母親の貧乳との別れもあったようです。



物心がついた頃から人見知りが激しく幼稚園でも自分から話しをするようなことも一切なく、聞かれることに対してうなづいたり、首を振ったりしていてまるで自閉症のような子供でした。

よく覚えているのが当時長屋に住んでいてその同じ棟に住むのお友達とよく鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴りなどをして遊んでいました。

かくれんぼって鬼になったらその場でしゃがんで、両手で目を塞いで

「い~ち~、に~い~、さ~んし~、ごーろく・・・」 (大阪弁のリズムで)

って声に出して10秒数えてから「もーいいかい?」「ま~だだよ」ってあれね。

全員が「も~いいよ」てなったら目を開けて探し始め、見つけたら「○○ちゃん、み~っけ!」

と、その頃の子供たちにとってはとっても楽しい遊びだったのです。

が、しかし

私は、なんせ親兄弟以外の人に、言葉を出すのも恥ずかしいというくらいの筋金入りの自閉症だったので、数える声は蚊の鳴くように小さく、かくれんぼのルールは熟知していてお友達の名前も全員知っているのですが、、

「○○ちゃん、み~っけ!」の○○ちゃんが言えなかったのです。
そう、名前を呼ぶのが恥ずかしくて言葉に出せないんです。だから、見つけては顔を真っ赤にして笑いながらその子を追っかけ回すだけで、
「ほんまに、ちゃんとやってや!ルールわかってんの」
と、いつもみんなに怒られてました。

お友達と遊ぶのは大好きなのですが、かくれんぼの鬼の役が本当に嫌で嫌でたまりませんでした。


関係ない話ですが、今この文章は喫茶店にてパソコンで打ち込んでます。
パソコンには「単語の登録」というのがあって、そこには仕事上よく使う言葉をたくさん登録してるのですが、キーボードで「ば」が頭に付く文字と打ち込んだら時々
「バストAカップ以下の常識ある女性」と、出るので一人で笑ってしまい、周りから変な目で見られてます。

話を元に戻します。

小学生になると自閉症も少しはマシになり、人見知りと言えるまでに良くなりました。
走るのが早かったり、ドッチボールが上手かったりと人よりも運動神経が良く、運動会のリレー選手に選ばれたりでクラスでは人気もありました。

野球が好きで、小1の時は大のジャイアンツファンでした。子供ながら下手な文章でファンレターを出したら、王と長嶋のサイン入り写真のハガキが返ってきて、それが本当に王長嶋の二人本人から返ってきた手紙だ信じて大喜びしていた純粋な子供でした。

小3になって親の仕事都合で藤井寺市に引っ越してからは学校の友達もバッファローズファンが多く、私も自然にジャイアンツファンからバッファローズファンへと変わっていきました。友達何人かで近鉄バッファローズ子供会に入り、いつも小さなエナメルのバックにサイン帳とマジックを入れてグローブを片手に持ち藤井寺球場へと出向くのが大好きでした。試合が終われば選手控え室の窓から覗いて選手の名前を叫んだりシャワーを浴びてる外人選手の裸を覗いて「デカチン、デカチン」と喜んだりで。あ、男の裸には興味がありませんので、

球場近くに住む選手も数多くい居て、太田幸司や阿部の自宅に行ってはインターフォンを押したり、ドアをドンドン叩いたりしてサインをせがんでいました。阿部はいつでも快くサインをしてくれました。何回行ってもサインしてくれました。太田幸司宅はいつも不在でロシア人の白髪頭のお母さんが対応してくれました。

二歳年上の兄がリトルリーグに入っていて、それを見ていた自分も野球に興味を持つようになり四年生になって藤井寺リトルリーグの入団テストを受けてみごとに合格しました

つづく

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