インサイド・アウト 第19話 ゼアーズ(5)
〈あなたはずっと僕の中に存在していたというのですか? なぜ? 何のために?〉
ローブの男に、僕は問いかける。
男はしばらく考え込むかのように黙り込んだ後、ゆっくりと答え始めた。
——君と同じように、私もまた、私自身が創り出した世界を彷徨っていたんだ。そして、意識の拠り所として、君の体を間借りしていたのさ——
〈あなたが、僕の生まれた宇宙の神様……ということですか?〉
——そう。だが、君も知っているように、神の力なんてたかがしれている。世界を変えたいと思っても、自分の思い通りにできることはほとんどない。たったひとりの人間の行動を変えることでさえもね——
〈あなたが変えたい世界というのは、《原点O》のことですか?〉
——私が変えたい、いや、私たちが変えなければならないのは、《原点O》そのものではない。ゼアーズを等々力から解放することこそ、私たちがやらねばならないことなのだ。そこには私がいるし、君自身もいる。そして、私たちの大切な〝あの人〟もね——
あの人というのは、きっと《左右対称の顔の女》のことだ。
だとすると、僕たちは全員、あの黄金色の水槽の中を漂っているということになる。いや、僕たちだけでなく、《原点O》を生きていたほとんどの人たちは、あの水槽の中で自分だけの宇宙を創造し、今もそこで生きているのだ。
〈……等々力の望みは、何なのでしょうか?〉
——膨れ上がった承認欲求と支配欲を満たすのが奴の望みなのさ——
〈たったそれだけのために……〉
——たったそれだけ? 奴にとってはそれこそが生きる目的であり、原動力なんだ。この世に存在するすべての生命体は、自分の存在価値を引き立てるための脇役に過ぎないのだよ——
〈でも、人はひとりでは生きていけません〉
——普通の人間ならばね。でも、奴は普通じゃない。現に奴はひとりで生き続けている。資源が尽き、食料も枯れ果てた《原点O》で、何百億年もたったひとりでね。奴にとって世界は自分自身であり、自分自身がすなわち世界なのだ。だから、話し相手を求めることはないし、肌の温もりを欲することもない。奴の頭に孤独という言葉は存在しないのだ——
そこまでして生き続けることの意味を僕は理解できなかったが、そういえば昔、僕が宇宙物理学者を目指していた頃、同じような妄想に耽っていたことがあったのをふと思い出した。永遠に生きて、この宇宙の行く末を見守っていたいと考えたことは僕にもある。だが、それはあくまで妄想上の話だ。
——奴は自分以外の全人類を滅ぼし、もうすでに長い間、たったひとりで暮らしている。朽ちることのない不滅の脳と肉体を手に入れてもなお、永遠に生き続けることを追い求めているのだ。奴は自分の宇宙がいつか終わりを迎えることを恐れ、我々が新たな宇宙を創造し、《原点O》との間に物理的な通路を確立することを、今か今かと待ちわびているのだよ——
その言葉に、僕は絶望感を覚えずにはいられなかった。等々力が考えることはあまりにもスケールが違いすぎた。たかが仕事のストレスごときで自らの命を断とうとする程度の僕とは、思考回路の前提が大きく異なる。そんな奴からどうやって逃げ出せばいいのか。
僕はすでに脳だけの哀れな姿にさせられてしまっている。僕だけではない。きっとこの声の主も、《左右対称の顔の女》も、あの金色に輝く水槽の中を今も虚しく漂流しているのだ。こんな状態で、果たして何ができるというのか。
だが、ひとつだけ、引っかかることがあった。どうしても解せない疑問だった。
〈……ところで、どうして等々力は、自らに処置を施さなかったのでしょうか。自分自身をゼアーズにしてしまえば、自分の思い通りの世界を創り出して、全知全能の神として世界に君臨できたのではないですか?〉
そう。今現在の僕と同じように、自分の意志によって思い通りの世界を創造し、その世界の神になればいい。等々力が自分の欲望を満たすには、それが最も近道のはずだ。
だが、男は残念そうに声を落として言った。
——等々力はすべての人類の頂点に立ちたい男だ。いや、人類だけではない。この世のすべての存在の中で、唯一無二の神になろうとしている。だがそのために自らの肉体を犠牲にすることはしない。奴は自分の肉体を愛しているからね。筋金入りのナルシストなんだ。だからこそ我々を実験台にして、その方法を探り続けているんだよ。気が遠くなるほどの長い時間をかけてね——
〈そんなことが可能なのですか? 自分の肉体を持ちながらも、神の力を手に入れるなんて〉
——おそらくね。それも、そう遠くない未来に。そして厄介なことに、等々力はその方法に気付きつつある。それも、《原点O》の彼ではなく、私が創造し、君が生まれ育った宇宙の方の彼がね——
等々力が僕に見せた研究資料に記載されていた一文が、一語一句鮮明に思い浮かぶ。
等々力が予言していた、宇宙の外側から監視している〝神〟の正体が、まさか等々力自身であることを、奴は予想だにしていないだろう。しかし、万が一そのことに気がついてしまったら、おそらく彼らは互いに手を組んで、この世界に存在する全宇宙を掌中に収めようとするだろう。
それだけは、絶対に、阻止しなくてはならない。
〈僕が生まれ育った宇宙で、何か異変が起きているのですね?〉
男はしばらく何も言わなかった。何をどう伝えるか、言葉を選んでいるかのようにも思えた。
天井からぶら下がる親子電球の弱々しい光を眺めながら、声が直接僕の意識に語りかけてくるのを待った。
——神の力は、脳だけでなく肉体そのものにも宿っている。だから、神の肉体を奪い、自らの体に接合することができれば、その力を手に入れることができるんだよ——
話し始めた男の声は、なぜだか少し、暗くなったように感じた。
〈それで、等々力がその神の力を手に入れたわけですね?〉
同時に、別の重大な疑問が頭の中に思い浮かぶ。
〈その宇宙にいた〝神〟は誰なのですか? 創造神であるあなたはずっと僕の体の中にいた。だとすると一体誰が……? もしかして……〉
男は、聞こえるか聞こえないかという声で言った。
——私の妻だよ——
その言葉を聞いた瞬間、僕はすべてを理解した。
夫を失ったと思っていた彼女は、ある日、実は夫が変わり果てた姿で生きていることを知ったのだ。そして、夫に少しでも近づくために、彼女自身もまたゼアーズになった。脳だけになり、意識だけを転送できるようになった彼女は、宇宙と宇宙の間を隔てる次元の壁を飛び越え、夫が創り出した宇宙へと移動した。そこで、夫と同じ姿を持つ僕に会った。彼女が僕のことを意味深な瞳で見つめていたのは、そういう理由からだったのだ。
でも、肉体だけを手に入れるだなんて、等々力はどうやって……。
そこまで考えて、僕は思考を切り替えた。
今考えるべきはそんなことじゃない。大切なのは、これからどうするかだ。幸いなことに、等々力は自分の分身が宇宙の外側にいることに気がついていない。それに奴はまだその力の強大さに気がついていないはずだ。しかし奴がその力の真の威力を知った場合、その気になれば、奴は、惑星どころか宇宙そのものを一瞬のうちに消し去ることができるようになる。そうなると、奴にとって都合の悪い宇宙は消され、意のままにできる宇宙だけが生き残っていくだろう。
何とかしなくては……。でも、どうすれば?
僕は考えた。しかし、肉体を失い、脳が水槽に閉じ込められた状態で、一体、何ができるというのだろうか。
何はともあれ必要なのは肉体だ。《原点O》で動かせる肉体がなければ、話にならない。
僕にはもう、肉体がない。僕だけじゃない。声の主も、《左右対称の顔の女》も、すでにその肉体のすべてを失っている。それも不可逆的に。元の肉体を再び得ることは、おそらく不可能だ。
でも、果たして本当にそうなのか? 《左右対称の顔の女》が宇宙と宇宙の間の壁を超えることができたのであれば、今僕がいるこの場所から《原点O》に移動することもできるはずである。どちらも状況的には同じことだ。
だけど、どうすれば宇宙間を移動することができるのか? 移動したことのない僕にはまったく想像もつかない……。
……いや、待てよ。僕も一度だけ、宇宙を移動したことはあるじゃないか。意識したわけではないが、結果的に僕は、元の宇宙から《原点O》に移動してきている。なぜ移動できたのか? やっぱりわからない。こればかりはどんなに考えても答えは得られそうもない。わからないけど、例えば、ワームホールのようなものが存在しさえすれば……。
僕は、はっとした。
……ワームホール? 穴?
《穴》と聞いて真っ先に思い出すのは、小学生の頃の記憶だ。
友達のいない僕は、家に帰るといつも庭に穴を掘って遊んでいた。子供だからそんなに深い穴が掘れるわけではない。それでも、僕は穴掘りが好きだった。
穴を掘りながら、いつも考えていた。この世界から逃げ出したい。この現実から逃げ出したいと。どこでもいいから、今すぐこの場所から抜け出したかった。当たり前のように敷かれた人生のレールから解放されたかった。
学校や会社という弱肉強食の組織。完成されているようでまったく完成されていない政治や医療。常に世界のどこかで起こり続ける紛争。それらすべてのしがらみを絶ちたいがために、僕はただひたすら深い《穴》を家の庭に掘り続けたのだ。
この世界から抜け出したいという思いが最も込められていたのが、《穴》だった。だからそれが《原点O》への通路になったのかもしれない。
薄暗い部屋の天井を眺めながら、僕は考える。何かが思い出せそうで、思い出せない。あとひとつ、何か重要なことを忘れているような気がする。
《穴》の記憶。《原点O》で見た砂漠の風景。それらの情報が、重大な手がかりのキーになっているのは間違いないが、肝心の鍵穴が見つからない。
だけど、大丈夫。答えはきっと、すぐそこにある。
そう言い聞かせると、僕が意識を宿していた男の子はゆっくりと瞳を閉じた。親子電球の明かりが、かろうじてまぶたの薄膜を通って眼球を刺激する。それでも、眠りに落ちるには十分な暗さだった。やがて意識が朦朧とし、男の子と僕は共に眠りへと落ちていった。
ローブの男の声は、いつの間にか、聴こえなくなっていた。
この日、僕は夢を見た。《砂漠の無人駅》の夢だ。かつて僕が生きた宇宙で、四歳の時に見たのと同じ夢だった。
炎天下の砂漠の中、ぽつんとたたずむ小屋の一辺に備え付けられた木製のベンチに、僕は、幼い頃の僕自身と一緒に横並びになって座っていた。
吹き荒れる砂嵐が、建て付けの悪い窓をときどき激しく揺らした。吹き込む隙間風によって、コンクリートの床に薄く降り積もった砂埃がふわりと舞い上がっては、再び床に落ちていく。その無意味な循環を静かに見守りながら、僕たちは互いに言葉を交わすこともなく、ただ時間の流れに身を任せていた。
ふと自分の右手を見ると、タバコを一本持っていた。もう一方の手の中には安物のライターがある。無言の時間を埋め合わせようと、僕はゆっくりとタバコに火をつけ、口にくわえた。普段タバコを吸うことはないので、肺まで煙を送り込む勇気は未だにない。うがいをするように何となく口の中で煙を滞留させた後、そのまま口から白い煙を吐き出した。
やがてタバコを吸い終えると、僕は朽ち果てたコンクリートの床に吸い殻を投げ捨てた。それから火を踏み消そうと足を伸ばしたそのとき——それは起きた。
床のちょうどつま先のあたりに、小さな《穴》が空いていた。僕の体は、まるでアラビアンナイトに出てくるランプの魔人のように引き伸ばされ、その小さな《穴》へと吸い込まれていった——。
これで、《原点O》に戻れる。
そう、僕は確信した。
おそらく等々力は、僕が《原点O》に戻ることを心待ちにしているだろう。宇宙と宇宙の間を隔てる次元の壁を越えられる能力を手に入れたと知れば、躍起になってこの力を奪おうとするに違いない。そうしたら今度は肉体だけでは済まされないかもしれない。
だけど、僕には助けたい人たちがいる。姉のことも、姪の夏希のことも、《左右対称の顔の女》のことも——。何より僕は、僕自身のことを救わなければならない。そして、再び向かうのだ。一度は自ら絶とうとした人生の続きを、再び自ら歩み始めるために。
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