中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第7話 砂漠の無人駅(2)

 電話の呼び出し音を十回鳴らしても、彼は電話に出なかった。きっといつものように会議に追われ、席を外しているのだろう。

 一日中会議の予定で埋まっている松本さんを捕まえるのは、常に困難を極めた。だがそれも今日に限っては、むしろ吉に出るような気がした。彼の怒りの感情が、他の出来事によって少しは紛れるかもしれない。

 僕は胸を撫で下ろし、受話器を戻した。それからパソコンの電源を入れ、いつも通りメールチェックしていると、数十通たまっている受信トレイの中に『重要度:高』のフラグで件名を赤色に染めた一通のメールに目が留まった。少し嫌な予感がしつつ、その件名をダブルクリックしてメールを開く。

To : hinami.hibiki@xxx.co.jp
From : matsumoto.hideo@xxx.co.jp
件名:【至急】打ち合わせをお願いします(3/31)
!このメッセージの状況:重要度が'高'に設定されています

日並様

いつもお世話になっております。
○○株式会社 松本です。

本日10時から今後の方針についてお話しさせていただきたく。

弊社会議室5を確保しましたので、
至急、ご来社願えますでしょうか。
 
以上です。よろしくお願いします。

 メールの文面を見た途端、先ほどの電話の用件はこれだったのか、とすぐに察した。

 一見穏やかに見えるメールの文面だったが、今までの経験から、このようなメールをもらった後に良いことが起きた試しはない。〝今後の方針〟と〝至急〟の組み合わせは特に要注意ワードだ。前もって計画が立てられているプロジェクトにおいて、至急、関係者を集めて今後の方針を話し合わないといけないような会議が無事に済むわけがない。それにこの驚くほどの情報の少なさ。このような会議に呼ばれたところで準備のしようがない。

 ともあれ、このままぐずぐずしているわけにもいかないので、僕は外出する用意を始めた。ノートパソコンを閉じ、ブリーフケースに入れる。それから電車の出発時刻を調べ、左手首に装着しているスマートウォッチで時刻を確認する。大丈夫。いますぐ駅に向かえば、何とか間に合いそうだ。

「悪い、今から客先に行くから、こっちはお願いしていいかな」と僕は後輩に言い、席を立った。チームのメンバー達は不安そうにこちらを見つめている。いつもとは異なる雰囲気に緊張が走っているようだった。僕はできるだけ和やかな表情を作るようにした。

「わかりました。こっちは任せてください。日並さんも、大変だと思いますが、頑張ってください」

 後輩の力強い言葉を背中に感じながら、僕はオフィスを後にした。


 会社から電車を乗り継いで十駅先にある取引先に行き、指定された会議室へと入った。開始時間に間に合うように、電車を降りた後、息を切らして走ったのに、結局は予定より三十分も遅れて会議はスタートした。だが少しも怒りは湧かなかった。いつものことで、もうすっかり慣れていたからだ。

 会議はアンフェアな状態で始まった。こちら側の出席者は僕一人に対して、先方は四名もいた。そのうち二人は見覚えがなかったが、特に挨拶もなく、席に着くや否やノートパソコンを開いて作業に没頭していた。この人たちは何をしに来たのだろうと一瞬疑問に思ったが、このようなことは大企業では珍しいことではない。よくわからない会議に参加し、特に会議に参加するでもなく、終始、ただそこにいるだけの存在。そういう人はどこに行っても必ずいる。会議に参加するくらいなら自分の席で作業した方が効率がいいだろうと思うのだが、見ず知らずの取引先の関係者にそのようなことを提言するほど僕も野暮ではない。そのような人は、最初からいないものとして扱えばよいだけの話なのだ。

 残る二名のうち、一人は松本さんで、もう一人はいかにも高級そうなスーツを身に付けた大柄な中年男性だった。この人とは一度だけ挨拶したことがある。松本さんの上司であり、取引先の部署の部長だった。叩き上げでのし上がったと有名なやり手の人物だったが、良い評判はあまり聞かない。同じ部署の部下だけでなく、他部署の人に対しても高圧的態度で接して精神的に追い込み、これまでに何人もの従業員を自主退社させたという噂が絶たない人だった。仕事を終えた後も自宅で仕事をし、有給を取っても職場近くの喫茶店で朝から晩まで仕事するという根っからの仕事大好き人間だ。厄介なのは、それを部下に押し付けることだ。要するに何事も自分基準で物事を押し付け、追い詰めるタイプの人間なのだ。

 常識の通用しない松本さんと、自分の歪んだ常識を押し付ける部長。この二人は、どちらかというと内気な部類の僕にはあまりにも不利な組み合わせだった。強力なカードを持つ先方に対し、こちら側のカードは自分一人しかいない。

「……で、テスト項目書の件の進捗状況はどうなってるんですか? 開発フェーズも終わりに差し掛かっているので、監査の人間がうるさいんですよ。品質保証をどうするのか、毎日のように問い合わせが来て、我々も困っているのです」

 開始早々、松本さんはこう言い放った。

 初対面の二人を紹介することもなく、会議の議題について触れるのでもなく、いきなり用件から入る彼のマイペースなやり方にはいい加減うんざりしていた。

「私を呼んだ用件はその件ですか?」と僕は言った。突然呼び出されたことに加え、三十分も待たされて苛立ちを隠し切れなかった。例の二人は相変わらず顔も上げずにノートパソコンのモニターとにらめっこしている。

 松本さんはさも迷惑そうに眉間にしわを寄せてため息をついた。「ええ、それ以外に何があると言うんですか?」

 だったらメールにそのように書いておいてくれ、と僕は心の中で吐いた。気持ちを落ち付けようと深呼吸して、松本さんの目を見てゆっくり話を切り出した。

「その件ですが、先月には方針は固まっていたはずです。最終的には、我々の提案したやり方で進めて良いと許可をいただいたと認識しておりますが……。前回の打ち合わせ後に送ったメールを出しましょうか?」、そう言って僕はノートパソコンで前回の議事録を記したメールを開き、彼らに見えるように画面を向けた。しかし彼らは画面を気にする様子もなく、腕組みをして僕の方を見ているだけだった。

 松本さんの口から出た言葉に、僕は耳を疑った。

「その件なんだけど、もう一度説明してもらえない?」

 少しも悪びれる様子もなく、無表情に彼は言い放った。また同じ説明をさせる気なのか、と不満に思いながらも、取引先の部長が見ていることもあって、僕は落ち着いてこれまでの経緯と前回出た結論を述べた。

 説明している間、二人は頷きもせず、ただ黙って聞いていた。いや、もしかしたら聞いていないのかもしれないと思うほど、彼らの目には全く力が入っていなかった。最初から僕の話など聞く気はないのかもしれない。まるでぬれぎぬの着せられた容疑者を見るかのような疑いの目を終始こちらに向けていた。僕はまるで自分が何か悪いことをしたかのような罪悪感に駆られた。

 それから、それまで一言も発しなかった部長が、誰が見てもわかるあからさまな作り笑いを浮かべて言った。

「日並さん、すみませんが、もう少し話す内容を整理してから話してもらえますかね?」

 優しそうな微笑みと猫なで声とは対照的に、その内容はストレートに僕の心を刺してえぐった。このようにしてこの人は他人を追い詰めてきたのだと、そのときはっきりと認識した。手を汚さずに人を殴る。まさにそのお手本といっても良いほどの嫌味な言い方に、嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

 こっちだって好きで前準備もせずに話しているのではないのだ、と思った。だけど僕はバツが悪そうな笑みを浮かべることでしか、その怒りを誤魔化すことができなかった。

「すみません。ではもう一度説明しますね」

 そう言って、過去に使用した資料を開きながら、再度一つ一つ順番に説明していく。同じことを再び一から話すのは苦痛だった。声は次第に小さくなっていった。自信を失いつつあるのを見抜かれないように、できる限り声を強く張って話した。

 早く終わって欲しい。

 僕はそう心の中で繰り返しながらも、その気持ちを悟られないように平然そうな表情を作って、淡々と説明を続けた。


 それから午前中いっぱい、その説明に時間を費やした。説明した内容に対して、議事録を紙に印刷したらA4用紙三枚分にはなろうかと思うほどの指摘を受けた。そして、それらの指摘に対する対応状況を毎日帰宅前にメールで報告するように指示された。先月、一旦落ち着いたと思っていた議論は蒸し返され、再び一から検討しなければならなくなっていた。

 自社に戻り、今日起こったことを上司に報告した。だが上司は、そのようなことには全く興味がなさそうだった。「その程度の問題、今までもちゃんと対処できていたんだから何とかなるでしょう。そんなことでいちいち報告なんてしなくていいよ」と、軽く考えているようだった。それよりも、売上と利益の目標を達成するための新規顧客開拓の方に夢中になっているらしく、損益試算用のファイルから目を離そうとしない。数値として結果が表れにくく、プラスの評価につながらない〝ハズレくじ〟は僕のような中間層に押し付け、上司たちは楽に結果につながる案件ばかりに関わろうとしていた。

 確かに、報告するだけ無駄だな、と僕は思った。


 帰りの電車の中、疲労感と孤独感に包まれながら、気がつくと僕は朝に見た《砂漠の夢》のことを思い出していた。

 炎天下の砂漠の中、ぽつんとたたずむ小さな無人駅の中で、何かを待つ父と幼い僕。父はコンクリートの床に空いている穴の中に吸い込まれ、そのまま姿を消した。薄汚いローブの男に、アリの頭部を持った二足歩行動物。耳鳴りとともに遠ざかる砂漠の風景。

 まるで何かを示唆しているかのような夢の光景を、どこかに記録しておかなければと僕は思った。スマートフォンを出して、以前インストールしたまま一度も使っていないSNSアプリを起動し、初めての書き込みをする。

 3月31日——
〈今朝、砂漠の夢を見た。この夢は以前に一度だけ見たことがあった。それは幼い頃、三歳か四歳の頃に一度だけ見た夢とまったく同じだった。何かを示唆しているような、不吉な予言のような夢。だから僕は、今日この夢を見たことを記録しておくために、インストールしたまま寝かせていたこのSNSを本格的に使い始めることにする。それにしても、目が覚めてしばらく時間が経つのに、頭にこびりついてなかなか忘れられない。それに思い出す度に耳鳴りが伴う。しかしどうして突然こんな夢を見たのだろう。ここ最近、夢らしい夢なんて見ることはなかったのに……〉

 書き終えて送信ボタンを押した後で、僕は《左右対称の顔の女》のことを思い出した。彼女は言っていた。僕はやがて『絶望』に陥るのだと。

 もしかしたらこれがその絶望の始まりなのだろうか。

 そう考えた後、夢の中で父が吸い込まれた穴と、僕が小学生の頃に現実から逃れるために家の庭に掘っていた穴のイメージが頭の中で重なった。

 電車に揺られながら、ほんの少し、だけど確実に、胸の中の何かがすり減っているのを感じた。

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