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インサイド・アウト 第13話 満月の夜、穴の中(3)

 居間へ行くと、テーブルには収まらないほどの食事が並べられていた。予想に反して豪華な食卓に一瞬戸惑ったが、体は正直なもので、食欲を隠しきれずに腹が激しく鳴った。そういえば、途中の八戸駅のカフェで軽く腹を満たしただけで、昨日からまともに食事を摂っていなかった。

「ビール飲むか?」

「うん」

 母の短い言葉に、僕もまた短く返すと、母は冷蔵庫から缶ビールと冷えたグラスを取り出してテーブルの上に置いた。

 これまでに受けたことのない母からの厚いもてなしに、僕は意表を突かれて当惑していた。そんなことを少しも気にする様子もなく、母は何も言わず、グラスにビールを注ぐ。

 その一連の所作を見て、かつて、ビールが冷えていないことに激怒した父が、母をひどく叱責していたことを思い出した。

 父は典型的な亭主関白だった。パートとはいえ母も働いていたにも関わらず、父は家事と家庭の全てを母に任せた。出稼ぎなので仕方ない部分もある。しかし、少しも感謝する様子もなく、それどころか全てがあたかも母の義務であるかのように振る舞う父に、幼いながらに僕はずっと違和感を覚えていた。

 父は、母に対してだけでなく、子供に対しても常に高圧的だった。些細な振る舞いが逆鱗に触れ、その度にこっぴどく怒鳴られた。

 出稼ぎから帰ってきた父に久しぶりに会うのが照れ臭く、テーブルの下に隠れて様子を見ていただけなのに、無理やり引きずり出されて叩かれたことがあった。

 また、理不尽な父に軽く反論しただけで殴り飛ばされたこともある。そのときは、まるで思い通りにならない飼い猫を山を捨てるかのように家の外に放り投げられ、鍵を閉められた。

 僕は泣きながら玄関を叩いた。拳から血が滴るほどに、強く、激しく。玄関の建て付けが悪くなったのはそれからだった。引き戸を開くたびに、戸車が大きな金切り声をあげるようになった。それはまるで僕の恨みと悲しみを代弁しているかのようだった。

 そのような嫌な思い出ですら懐かしく感じられるのは、昨日、死の淵に少しだけ手を触れてしまったせいなのかもしれない。生きる希望の見えない今に対して、昔は希望に満ち溢れていたような気がした。人間の可能性、社会の可能性、そして何より自分自身の可能性について、あのときは自分の周りがとても輝いて見えた。

 久しぶりの実家で昔のことを回想しながら母の食事を食べるのは、思っていたより悪い感じはしなかった。腹が減っていたこともあり、母の食事は想像以上に美味しく感じる。

 母の箸を持つ手が妙に重々しいことに気がついたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

「夏希は、一緒にご飯を食べないの?」

 僕が訊くと、母は咳払いをして口ごもった。入れ歯が外れたようにもごもごと口を小さく動かして、何を言っているのかなかなか聴き取れない。

「我ど二人の時は出でぎで食べるんだげども」と独り言のように呟くと、何もない空の一点を見つめながら、湯気の出ていない味噌汁を熱そうに啜った。

 僕がいるせいで、夏希は部屋から出て来られないのだ。一度もまともに口を聞いたことにない僕と同じ空間にいることは、想像するだけでも耐えらないのだろう。そう思うと、我が家とはいえ突然帰ってきたことに罪悪感を感じずにはいられなかった。

「ご飯を部屋まで持っていってあげたら?」

 せめてもの罪滅ぼしで言ったのだが、母は腫れ物に触るかのように首を横に振った。

「いや、だいじょうぶだ。気にしなぐでいい」

 そして母は黙り込んだ。箸を持つ手はまるで鉛でも持っているかのように重く、小刻みに震えている。

「夏希は、いつから人と話ができなくなったの?」と僕は訊いた。

「昔がらそうだっだ」、母は古い記憶をたぐり寄せるかのように目を細めた。「童のとぎがら人ど話さながっだし、友達もいながっだ。われが育でがだをあやまっだんだ。『夏希』という名前さ込められだ想いを、われが無駄にしでしまっだんだ。夏みだいに明るく、周りに希望を与える人。そうなるはずだっだ。それが、今では……」

 母はそこで言葉を切った。味噌汁のお椀を手に持ったまま、テーブルの上を虚ろに見つめている。

 夏希の名前の由来——夏のように明るく、周囲に希望を与える存在。亡くなった姉が、姪の名前の由来についてそう話していたのを、僕は今でも鮮明に覚えている。

 その想いを継ぐことができなかったのは、母だけではない。だから僕は、母に返すべき言葉が何も見つからなかった。

 沈黙の時間が流れる。

 人は、何かに想いを託すとき、名前をつける。ペットに対しても、お気に入りのぬいぐるみや文房具に対しても、名前をつけることで存在を認識し、愛着を持つ。特に自分の子供に対してはそうだろう。名前とはつまり、その人の想いそのものなのだ。

(名前とは、人の想いそのもの……)

 そう心の中で繰り返したあと、僕はあることに気がついた。

 黒ベストが所属する『日本アウトベイディング』という会社の社名も、何かの想いが込められているのかもしれない。

 しかし、その社名だけでは何もピンと来ない。『日本』はまだわかるとして、『アウトベイディング』という言葉の意味するところが、全く見当もつかなかった。

 もしかしたら、意味など全くないのかもしれない。

 だが、僕はその奇妙な社名に何か引っかかるものを感じていた。明らかな違和感というか、悪意のような響きを感じ取らずにはいられなかった。

 高校卒業程度の英単語は大体把握しているつもりだった。しかし、このような英単語は聞いたことがない。だからと言って、英語以外の言語である可能性は極めて低いと思った。英語で〝外〟を意味する『アウト』と、現在進行形や動名詞で使われる『イング』の両方が使われているからだ。意味がわからないのは、それらの言葉を繋ぐ『ベイド』という言葉だけである。

 胸騒ぎは徐々に大きくなっていった。鼓動が増し、全身から汗が吹き出す。

 理由はわからない。しかし、とてつもなく嫌な予感がした。

 僕は急いで食事を平らげ、母の分も含めて食器を洗ったあと、寝る準備もせずに自分の部屋に戻った。母は、まだ、虚ろに宙を見つめたままだった。


 部屋に戻ると、本棚にある英和辞典を手に取った。

 まずはじめに取り掛かったのは、アウトベイディングという言葉に該当する英単語を見つけることだった。しかし、「outbading」も「outvading」も、あらかじめ想定していた単語は見つけられなかった。

 だとすると、造語なのかもしれない。ならば次に取り掛かるべきは、これが何の造語なのかの見当をつけることである。

 「out」は〝外〟で、「ing」は動名詞だと仮置きし、その間に入る『ベイド』という言葉に該当する英単語を探した。

 今度は、「bade」も「vade」も、辞書に記されていた。

 「bade」は競売で値段を付けるという意味の「bid」を過去系にしたもの。それから「vade」はfade(衰える)またはvanish(消える)の古表記だった。どちらにせよ、このままでは全く意味が通じない。

 行き詰まったか。

 そう一瞬頭をよぎったが、気を取り直し、今度は対義語に着目してみることにした。つまり、接頭辞の「out」の部分を「in」に置き換え、『アウトベイディング』ではなく『インベイディング』という言葉を探してみるのだ。

 そのように発想を変えた途端、辞書をめくるまでもなく、僕の頭の中に一つの英単語が思い浮かんだ。それは難しくもなんともない、ほとんどの人が知っているであろう簡単なワードだった。

 ——invading——

 〝侵入する〟という意味の「invade」に、「ing」を付けた形。

 そこで、試しに接頭辞を「out」に替えてみた。

  ——侵出する——

 侵出? 一体、どこに侵出するというのだろうか?

 そのとき、一つの恐ろしい仮説が閃いた。

 これまでの推測が全て正しいとすると、黒ベストの所属する組織——『アウトベイディング』の真の目的は、この宇宙の外側へ〝侵出〟すること。

 そう考えた途端、次々とパズルのピースが組み上がっていくのを感じると同時に、不足している欠片がまだ存在することに気がついた。

 彼らがやっていたことは、宇宙外の存在である《イレギュラー分子》を見つけ出し、その正体を捉えることだった。そして、《イレギュラー分子》を利用し、何らかの手段を用いて、彼ら自身が宇宙の外側へと侵出しようとしていたのだ。

 もしかしたら、彼らの目的はそれだけには留まらないのかもしれない。この宇宙どころか、存在しうる全ての宇宙の支配権を得ようとしているのかもしれないと、次々と僕は妄想にも近い想像を膨らませた。

 彼らが作っていた、《イレギュラー分子》を見つけるための監視システム——〝神〟検出器は、神を検出する機械などでは決してなく、〝彼ら自身〟が神となり得るための装置だったのである。

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