砂丘の満月

インサイド・アウト 第16話 おとぎの国(2)

 ふたりの女がいる。ひとりは完全なる左右対称の顔を持ち、もうひとりはごく一般的な左右非対称の顔を持っている。一方は病室のベッドの脇に立ち、もう一方はベッドの上で、頭部だけのむごい姿で仰向けに横たわっている。いや、横たわっているというより、「置かれている」と言い表す方が適切だろう。わたしはまるで第三者の視点で眺めるかのように、自分のおかれた奇妙な状況を冷静に分析していた。

「あなたがここに来るのをお待ちしておりました」と左右対称の顔の女は言った。「どうしてこのようなことになったのか、あなたは疑問に思い、ひどく混乱していることでしょう。でも、申し訳ないのですが、私は同情を述べるためにあなたをお呼びしたのではありません。私たちにとって大切なことを伝えるために、あなたをこの場所にお招きしたのです」

 濁りがなく、それでいて、よく響く透き通った声だった。その声に、わたしは聞き覚えがあった。

 喫茶『ロジェ』で意識を失う前、わたしに声をかけてきた人物と同じ声質だった。敵か味方か、わたしは判断に迷った。しかし、その慈愛に満ちた雰囲気に悪意は感じられなかった。わたしは、彼女の話に耳を傾けることにした。

「さて、本題に入る前に、まずはこの世界のことについてお話ししておかなくてはなりません」、彼女はゆっくりと語り出した。「これからお伝えすることはあなたにとっては信じがたい内容になるでしょう。でも、私のことを信じて、どうか話を最後まで聞いてほしいのです。もう一度言いますが、これは私にとっても、あなたにとっても、非常に大切な話なのです」

 女の声は弦楽器のように空気を震わせ、わたしの耳に優しく届いた。

「この世界には無数の宇宙が存在します。それらの宇宙は泡のように、現れては消えていきます。創造と破壊を絶え間なく繰り返しているのです。あなたがた人類が『ビッグバン』と呼んでいるものは、その泡のひとつが誕生する瞬間のことを指しているにすぎません。

 ですが、『泡』と一言で言っても、この世界はコップに入れた炭酸水のような単純な構造をしているわけではありません。人間の五感では感じることのできない高次元の空間の中に、それらの泡が何層にもなって存在しています。この世界は、単純な三次元空間的な広がりをもつだけでなく、高次元に凝縮された目に見えない密度を持っているのです。たとえば、一本の細い糸を顕微鏡で観察してみると、螺旋状にねじれた壮大な三次元空間が広がっているのがわかるでしょう。このように、三次元空間の中には四次元、五次元の空間がぎゅっと凝縮されているのです。

 さて、次々と生まれるそれらの泡の中に、一つだけ、自らの意志によって新たな泡を創り出すことに成功したものがありました。つまり、自らの宇宙の中に、別の宇宙を創り出したのです。無限の広がりを見せるこの世界が、実は何層にも折りたたまれ凝縮された高次元時空間だということに気が付いた、とある知的生命体が、自分たちの暮らす宇宙の中に新たな時空間を創り出すことに成功したのです。

 このようにして、その宇宙の中に次々と子供の宇宙が生成されました。それらの子の宇宙は点A、点B……という風に呼ばれ、おおもとの宇宙は《原点O》と呼ばれました。私はその《原点O》からはるばるやってまいりました」

 女の話は、にわかに信じがたい内容だった。無数の宇宙が存在するだけでなく、宇宙の中に別の宇宙が存在するなんて思いもよらなかったし、今まで考えたこともなかった。それでも、神々しい雰囲気を醸し出している女の言葉には、妙な説得力が感じられた。

 左右対称の顔の女は、そのまま話を続けた。

「生成されたすべての宇宙は、原点Oをベースにして創られました。言うなれば原点Oのコピーのようなものです。でも、だからといって、電子データのように一操作で簡単にコピーできたわけではありません。原点Oが誕生する際の細かな条件を忠実に再現することで、元の宇宙に限りなく近い宇宙を創造したのです。例えばボールを投げる時、狙いに応じて速度や角度を調節するのと同じように、目指すべき点に向けて必要な条件と辿るべきプロセスを自分たちの手で選択したのです。それは気が遠くなるほどに、手間と時間のかかる作業でした」

 《左右対称の顔の女》は遠い目をして語った。まるで彼女自身にその経験があるかのように、語気には強い自信がこもっていた。

 彼女が原点Oからやってきたのは一応理解はできた。ならば、今わたしのいる宇宙は一体何なのだろうか?

 まるでわたしの心を読んだかのように、女はその問いに答える。

「最初にお伝えしたように、この世界には無数の宇宙が存在します。原点Oが生み出した子の宇宙も、同じく数えきれないほどたくさん存在します。そして実は、今、私たちのいるこの宇宙は、原点Oから創造された一番最初の宇宙なのです。宇宙の秘密を解明した天才科学者が、自らの体を実験台にして創り出した彼の中の宇宙——。彼は、今でも向こう側で静かに眠り続けています。今のあなたよりもむごい姿……肉体を捨て、脳だけの姿になって、培養槽の中で永遠に生き続けているのです。何を見ることも、聴くことも、匂いを嗅ぐことも、食べることも、話すこともなく、自身の中に創り出した宇宙の創造神として、彼は永遠の地獄の中で今を生きています。

 あなたも考えたことがあるでしょう。この世にあるのは地獄と砂漠だけなのだと。生きていても、感じられるのは絶望と渇望だけ……。天国や楽園は存在しないのだと。でも、この世に真の地獄があるとしたら、彼の人生こそがまさに本当の地獄なのだと私は思うのです——」

 彼女の言う通り、わたしは、物心がつき、自分が可愛くないということに気づきはじめた頃から、この世は地獄と砂漠しかないと考えるようになった。自分の力ではどうあがいても超えることのできない理不尽な壁を感じていた。わたしの人生はまさに、女として生き続けることへの絶望感と、自分には手の届かないものに対する渇望感で構成されていた。

 でも、彼女の言う《この宇宙の創造神》と比べたら、五感を通して知覚し、自由に体を動かすことができていただけ、まだ救いようはあったのかもしれない。だがそのことに気がついても、頭部だけの姿になり、自由に体を動かすことができなくなった今となっては、もうどうすることもできなかった。彼と同じように、これからが本当の意味での生き地獄の始まりなのだ。

 この宇宙の創造主は、何を感じ、何を考えているのだろう。今もどこかでわたしたちを観察しているのだろうか。だとすると、こんな姿になったわたしのことをどう思っているのだろう?

 わたしは、この世界の神となった人物と自分自身の姿を重ね合わせていた。

 《左右対称の顔の女》は話を続けた。

「しかし、そうやって自らの中に宇宙を創り出し、創造神として永遠の地獄を生きている彼のことを助け出そうとする人物がいました。その人は、彼と生涯の契りを交わしていた、かつての彼の妻でした。彼と別れ、離れ離れになった後も、彼女は夫のことを想い続けてたのです。

 彼もまた、妻のことを忘れたことは片時としてありませんでした。とある組織によって、彼は妻子の命と引き換えに自分の生涯を売り渡し、研究のすべてを組織に捧げていました。彼の頭脳を利用し続けるために、組織は二人に永遠の命を与えていました。

 そして、彼が肉体を失い、脳だけの姿で培養槽に入れられていることを知った彼女は、自らもまた脳だけになり、彼女もまた自分自身の中に宇宙を創造したのです。

 どうして彼女がそのようなことをしたのか、あなたには理解できないでしょう。ですが、そのとき、宇宙を超えて別の宇宙へ行くためには、肉体を捨てて意識だけの存在になる必要があることが、すでにわかっていました。宇宙と宇宙の間を隔てる《次元の壁》を超えるためには、肉体を捨てる必要があったのです。そのためには、脳だけで培養槽に入れられ、永遠に生かされるのは非常に都合がよかったのでしょう。彼女は自身の脳を提供し、組織に協力するふりをして、自らの中に宇宙を創り出しました。そして、夫の創造した宇宙へのコンタクトを試みたのです。

 長い時間を経て、彼女は次元の壁を越えることに成功しました。そして、ついに見つけ出したのです。かつての夫とは異なる人生を歩みながらも、同じ氏名を持ち、外見も性格も、夫と酷似している人物を……。

 彼は、自分がこの宇宙を創造した神の分身であることも知らずに、ごく普通の人生を送っていました。平均的な知能を持ち、人間社会の歯車の一つとして、一般的な独身男性とそれほど変わらない暮らしをしていました。

 しかし、ある日突然、彼は自ら命を絶ちました。彼の根本にある闇が、生きることそれ自体を拒み、突然、彼自身に牙を剥いたのです。彼は生きることに疲れ果て、すべてに絶望していました。たった37年間の短い命でした。

 ——次の瞬間、宇宙は泡のように消え去り、その直後、宇宙は再び創造されました。それから気の遠くなるような時が流れ、地球が誕生し、地球上に再び生命の息吹が宿りました。遥かなる進化の過程が繰り返されたのち、人類が誕生し、文明が発展しました。そして、西暦1981年の日本で、彼は再び誕生しました。宇宙は彼の死と共に消滅し、再生を繰り返していたのです。

 彼女は、彼のことを観察しました。どのような環境で育ち、どのような青春時代を送ったのか。再び絶望に身を落としてしまうことがないか、陰から見守り続けたのです。

 一見、普通に暮らしている彼の中には、常に深い闇が渦巻いていました。人とうまく接することができず、苦しむことがよくありました。他人と関わるのを恐れるあまり、学校を休み続けていた時期もありました。それでも彼は、自分なりに考え、できることを探し、立派な大人へと成長していきました。

 ですが、再誕生してから37年後のある日、彼はやはり再び自ら命を絶ってしまいました。そして宇宙は再びリセットされ、その度に遥かなる時空を繰り返し、彼はまた誕生したのです。それでも、37歳になると必ず自ら命を絶ちました。

 彼女はそのまま静かに彼のことを見守っているべきでした。しかし、黙って見ていることに耐えられなくなった彼女は、ついに、彼の人生に介入してしまったのです。

 神が世界に介入してしまうのはタブーでした。万が一、神の存在が知られてしまった場合、おおもとの宇宙である《原点O》の存在が脅かされてしまう可能性があったからです。ですが、彼女はもうこれ以上、彼が絶望を繰り返すのを見過ごすわけにはいきませんでした。

 そして彼女は、彼に救いの手を差し伸べました。彼が絶望に打ちひしがれて命を絶とうとする前に、自らの姿を実体化して彼の前に現れ、死の誘惑に屈しないように様々な手段を使って諭したのです。

 しかしそのとき、彼女はまだ気づいていませんでした。自らが犯してしまった過ちによって、愛する人が創り出した宇宙だけでなく、おおもとの宇宙である《原点O》の命運を左右するほどの巨大な陰謀を動かし始めてしまったということに——」

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