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インサイド・アウト 第22話 旅立ち(2)

 実際に事務員の仕事をしてみて、予想していた通り、嫌なことは何度かあった。失敗して注意を受けることもあれば、機嫌の悪い患者さんに舌打ちをされたこともあった。何ごともなく一日が終わる方が珍しかった。

 けれども、家の中でもやもやと過ごしているよりはずっとよかった。単純作業でも、頭を使う作業でも、何かに没頭している間だけは、いままでの嫌なことを一時的にでも忘れることができたからだ。祖父や父から虐げられてきたこと。母からも見捨てられたこと。生まれながらに敷かれていたレールから踏み外し、社会の歯車になり損ねたこと。小学生の頃に先生やクラスメイトから投げられた差別の言葉の数々。忙しくなればなるほど、そういう余計な過去の記憶が突然フラッシュバックすることがなくなっていった。

 それから、あの嫌な夢はもう見なくなっていた。灰色の町の中を何者かに追いかけられ、ビルの屋上から飛び降りる夢は、原点Oから戻ってきて以来、まだ一度も見たことがない。


 日々が淡々と過ぎていった。

 事務員のアルバイトを始めて三ヶ月が経った頃、かねてから東京に行きたいと言っていたわたしに気を遣ってくれたのか、所長から東京の御茶ノ水にある支店で働かないかと話を持ちかけられた。一年間の試用期間ののち、正社員として雇うことも可能だと言われた。その場合、専門学校に通ってカウンセリングの資格を取得する必要があるとのことだったが、学費は会社が全額負担してくれるし、学校に通っている間の給料は全額補償してくれるという好条件付きだった。あまりにうますぎる話に詐欺ではないかと一瞬疑ったが、調べた限り、きわめて善良な会社のようだった。わたしは二つ返事で所長の申し出を承諾した。

 それから一ヶ月もしないうちに故郷を出て、東京の御茶ノ水駅から徒歩十五分のところにある築四十年の古アパートに居を定めた。都内一等地の立地にも関わらず、家賃三万円という格安物件だった。四畳半・風呂なし。救いなのは家賃の安さと、二階の角部屋で、隣が空き部屋だということだ。アパートの中で唯一の女性ということもあり、大家さんが気を利かせてくれたのだった。

 風呂がなくてもそれほど困らなかった。歩いてすぐのところに昔ながらの銭湯があった。どうやら、都心にはそのような下町情緒のある地域が所々に存在しているようだった。

 わたしがイメージしていた都会とは、随分印象が異なっていた。都会には冷たい人が多いと言っていたのは誰だろう? まだ数日しか経っていないにも関わらず、下手に田舎にいるよりもずっと人間の温かさを感じる出来事に多数遭遇していた。これまでいかに狭い世界で暮らしていたのか、わたしは痛感した。家庭環境、地域、学校、これらはどれも狭い集合体だ。それらの集団の中で優位に立ったからといって、どこに行っても通用するとは限らない。その逆もまた然りだ。東京に来て、わたしの視野はぐんと広がった。わたしにも十分に生きる場所があることを知った。


 上京して二日目の夕方、職場を後にしたわたしはその足で街を探索した。 

《青木ヶ原樹海》のホテルでSとともに夜を過ごした翌日、知らないマンションの一室で、わたしは目を覚ました。その場所を探し出そうとしたのだ。

 幸運なことに、職場と住居のある御茶ノ水の町は、あの日歩いた町並みにとてもよく似ていた。たぶん、同じだ。目覚めたあとの夢のように、あのときの記憶は日に日に薄れゆくけれども、駅前の濁った河も、その上にかかる橋も、交差する三本の列車の路線も、どれも記憶している光景と一致している。

 かすかな記憶を頼りに二時間ほど探索したが、日並響のマンションを見つけることはできなかった。見るからに賃料の高そうなマンションの四〇四号室に、彼は住んでいたはずだ。エントランスには厳重なロックがかかっていて、部外者は立ち入ることができない。中に入れないにしても、、彼がそこに住んでいるかどうかが確認できればよい。

 これじゃ、まるでストーカーみたいだな、と自分でも思った。客観的に考えるまでもなく、気持ちの悪い女だ。

 でも……とわたしは言いわけを探す。別に、わたしは彼に会いたいのではない。確かめたいだけなのだ。あの一連の出来事が、本当に夢だったのかどうかを。

 Sを探しに《青木ヶ原樹海》に行ったことや、彼と一緒にホテルに泊まったこと、《左右対称の顔の女》から話を聞いたこと、《原点O》で日並響と会ったこと、それらの出来事が本当に夢の中の幻に過ぎなかったのかどうかを、しっかりこの目で確かめたい。

 しかし、結局、彼の住むマンションを見つけることができなかった。

 夜八時、アパートに戻ってきた。年齢に不相応な、就職活動中の学生が身に付けるような地味なスーツを身に付けたまま、帰る途中で買ったノンアルコールビールのプルタブを引く。窓を開け、夜風に当たりながら、ただ苦いだけの炭酸飲料を喉に流し込んだ。それだけでも、一日の疲れがすっと取れていくのを感じる。

 窓の外を眺めながら、しみじみと考える。ここは都会のど真ん中とは思えないほど、閑静な住宅街だ。独り暮らしの寂しさも、時々聞こえてくる子供の笑い声が紛らわせてくれそうだ。下町風の古い家屋と新築の家が混在しているのが何だか妙にリアルで生々しい。

 わたしは窓から身を乗り出して、街並み全体を見回した。すぐ右側に、閑静な住宅街にはあまり似つかわしくない高級マンションがこちらを見下すように建っているのが見えた。

 そういえば、あのマンションはまだ見に行ってなかったな……。

 わたしはもう一度窓から身を乗り出して、右側にそびえ立つ高級マンションを観察する。いかにもお金を持っている人が住んでそうな荘厳な佇まいに、既視感のようなものを覚えた。

 まさか。

 気持ちを抑えきれなくなり、まだ履き慣れないパンプスを履いて外に出ると、わたしは表通りを右に歩いた。静かな夜道に佇む街灯が、まるでわたしを導くかのようにマンションへの短い道のりを照らしていた。

 マンションのエントランスに入る。エレベーターホールへと続く通路は、ロック式の自動ドアによって閉ざされていた。暗証番号を入力することで開く方式のドアだ。わたしは、頭の中に無意識に浮かんだ六桁の番号を入力した。

 404310

 そのまま、右下にある緑色の確認ボタンを押すと、自動ドアが静かな機械音と同時に開いた。

 日並響のマンションから持ち出したキーケースの中に入っていた紙切れに書かれていた番号を、わたしはまだ覚えていた。彼のマンションに入るときに入力した番号が、無意識のうちに記憶に刻み込まれていたのだ。

 やっぱり夢ではなかったのだ。いままでの出来事が夢ではないことがわかっただけでも嬉しいと思った。でも、できることなら、この先にあるものを確認したい。

 期待に胸を膨らませて、わたしは彼のいた四〇四号室の前に行った。しかし、ノックをしても誰も出てこない。

 あきらめて一階に戻り、エントランスにある集合ポストを見ると、四〇四号室の郵便物の差し込み口には養生テープが貼られていて、郵便物を入れられないようになっていた。それはもう、そこには誰も住んでいないことを表していた。

 偶然居合わせた同じマンションの住人に話を聞いたところ、引っ越したのはつい先ほどとのことだった。わたしはタッチの差で、せっかくの手がかりを逃してしまったのだ。


 その足でわたしは、十五分ほどかけて御茶ノ水駅の駅前まで歩いていった。橋名板に「聖橋」と書かれた橋を渡り、かすかな記憶を思い出しながら、二つ目の手がかりとなる場所を探す。

 車一台がやっと通れるほどの路地に入ると、古びた佇まいの喫茶店があった。店の看板には「ロジェ」と記されている。店の外にもコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきている。

 ドアを開くと、ベルの音とともに、ジャズの情熱的なピアノの旋律に包み込まれた。遅い時間にも関わらず、多数の客で賑わっている。

「お客様、申しわけございません。ただいま満席でございまして……」

 店員が申しわけなさそうに言った。

「そうですか。わかりまし……」

 言いかけたとき、店に中に見覚えのある顔があるのに気がついた。

 戸惑う店員を横目に、わたしはそのまま、店の一番奥にある二名掛けのテーブル席に向かって歩き出した。

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