砂丘の満月

インサイド・アウト 第20話 夢と現実の狭間で(5)

 ベッドの横には床頭台があり、その上には木製の小箱が置かれていた。小箱の蓋には大きさの異なる丸い図形が彫られていて、左手前から対角線上の隅に向かって遠ざかっていくように図形は小さくなっていた。その中のひとつに土星の環のようなものが描かれていることから、それらの丸い図形が太陽系の星々を模したものだと気がついた。稚拙な造りではあったが、作者の魂が込められているように見えた。台の上に他には私物らしきものが置かれていないのに、木彫りの小箱だけが唐突に置かれているのは場にそぐわない感じで奇妙だった。

「そのオルゴール箱は、響おじさんが小学校の卒業制作の際に作成したものだと聞いています」と夏希さんは言うと、箱の底のねじをたっぷりと回して、もったいぶるようにゆっくりとふたを開けた。

 次の瞬間、やわらかな金属音が部屋の中を満たした。聴いたことはないが、懐かしい感じのするメロディーだ。箱の中には赤い布がすきまなく敷き詰められていて、小さなダイヤモンドの施された指輪がひとつだけ、ぽつんと収められていた。くすんだダイヤモンドの輝きは北極星のように弱々しく感じられたが、確固たる意思で何かの方角を指し示しているようにも見えた。

 どうしてオルゴール箱が病室に置かれているのか。どうして夏希さんはオルゴールを鳴らし始めたのか。これと彼の身に起きたことにどんな関係があるというのか。あるいは何の関係もないのか。

 質問しようとして、言葉を飲み込んだ。不可解なことが起こるのは今に始まったことではないし、他に確認すべきことがもっとあるような気がしたからだ。わたしは慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「彼の身に何が起きたのか、聞かせていただけませんか?」

 一年分の降水量を一日に集約したかのように、雨はその勢いをさらに増していた。オルゴールの音色は雨音に打ち消され、初夏にも関わらず、部屋の空気は一気に冷え込んでいった。スチーム暖房器の熱気が窓を結露させ、窓ガラスの内側には大粒の水滴が流れている。

「四日前、響おじさんは、久しぶりにうちに帰ってきました」、夏希さんは外を見つめたまま話し始めた。「私が物心ついた時には、おじさんはすでに東京で暮らしていて、帰省で戻って来ることは二、三年に一回程度でした。たまに帰ってくるにしても、連絡が来るのはいつも前日……。それに、帰ってきても私たちが言葉を交わすことはほとんどありませんでした。響おじさんは他の親戚のように、『元気にしているか』とか『大きくなったね』とか、そういう言葉をかけてきたりはしなかったのです。声をかけてくれるのはせいぜい『おはよう』くらい……」

 言葉とは裏腹に、夏希さんは寂しそうではなかった。むしろ清々しさすら感じられた。

「きっと、響おじさんはわかっていたのだと思います。私が本当に聞きたいのはうわべだけの挨拶などではなく、亡くなったお母さんの話なのだということを。ですが、おじさんはおじさんで、私に対して後ろめたさのようなものを感じていたのでしょう。まだ一度も、私にお母さんの話をしてくれたことはありません。帰って来るといつも気まずそうにして、決して目を合わせようとしませんでした。大人になるにつれ、なかなか帰省して来ないのは自分がいるせいなのかなと、私は考えるようになりました」

 夏希さんはお見舞いの果物の盛り合わせの中からりんごをひとつ取り出して、流し台の前でむき始めた。目の前では、Sと同じ容貌を持つ日並響が、相変わらず寝息も立てずに静かに眠っている。しかし、薄いまぶたの奥で、眼球だけがまるでひとつの独立した生物であるかのように激しくうごめいていた。おそらく、彼は今、夢を見ているのだ。それも、極めて悪い夢に違いない。

「おじさんが帰って来る頻度はさらに減っていきました。前に会ったのは、私が十五歳のときでした。それからもう二度と、実家には帰って来ないのかもしれないと思うほど、音沙汰がなくなりました。それから二十歳になり、パティシエになるのが夢で始めたケーキ屋さんのアルバイトをやめ、家に篭りがちになっていたとき、突然、私のもとに例の女の人が訪ねて来たのです。その人は私にこう言いました。一ヶ月後、響おじさんが帰って来る。そのとき、《穴》が必要になるから、私が用意をしなければならない。私でなければ意味がない。そう言い張るのです」

「夏希さんは、その話を信じたの?」

 わたしが訊くと、彼女は首を横に振った。

「そんな、まさか。信じる信じない以前に、何を言っているのかまったく理解できませんでした。だいたい、響おじさんが帰って来ることと、《穴》を掘って待っていることの間に、何の因果関係があるというのでしょう。私には理解できませんでした。でも、質問しても、あの人は答えてくれませんでした。おじさんに必要なのは《穴》なんだって、いくら訊いてもその一点張りでした。それなのに私は……」

 そこまで言って、夏希さんはりんごをむく手を止めた。黒く大きな瞳は、深い後悔で滲んでいるかのように見えた。

 そういえば、Sは言っていた。

 ——僕は追い詰められると、いつも必ずどこかに逃げ出そうとした。幼い頃は、どこかに逃げたくなって、家の庭に深い穴を掘った。深く深く掘り続けた。やがて諦めて穴掘りはやめたんだけど、頭の片隅には、ずっと『この世界から抜け出したい』という思いが残っていて、その考えは歳を重ねるにつれてどんどん大きくなっていった——

《青木ヶ原樹海》でSと会った時、彼は自殺を試みるほど追い詰められていた。わたしがこちら側の宇宙に転送されてきた後、Sがどうなったのかはわからない。でも、日並響のGPS信号の軌跡を見る限り、このふたりはどちらも概ね同じ行動を取ってきたのだと予想できる。Sと日並響は、別々の宇宙を生きる同一人物なのだ。同じ場所に住み、同じ職業に就いている。Sが話していたように、日並響は《穴》に入り、この世界から抜け出したのだろう。肉体だけをこの世に残して。

「あなたは、その《穴》を掘ったのね」

 彼女は静かにうなずいた。それから、気持ちを切り替えるように再びナイフを動かした。

「私には、あの女の人が悪い人には見えませんでした。それに、仕事をやめて一日中家にこもるようになり、日々の目的を見失いがちになっているときに、私は自分にしかできない使命を与えられた気分になったのです。響おじさんが求めているのなら、力になりたい。そう考えた途端、身体中にエネルギーが満ち溢れたのです。誰かのために何かをやるというのは、素晴らしいことなのだと、そのとき私は身を以て実感したのです」

 自分にしかできない使命。誰かのために何かをやるということ。わたしはそれらの言葉を、心の中で何度も反芻した。

「〝私〟が穴を掘ることに意味がある。あの女の人が発した言葉の意味は、そのときはまったく理解できませんでした。そしてタイミングを見計らったかのように、あの晩、響おじさんは家に帰ってきたのです。あれはちょうど満月の夜でした。月明かりが地面を照らす角度によっては、懐中電灯がなくても穴の最深部まで到達できるかもしれないと思いました。確かめたくて仕方なくなった私は、みんなが寝静まった後、自分が掘った裏庭の穴の中に入ってみました。穴の中にいると不思議な安心感に包まれました。するとその直後、おじさんも穴の中に入ってきたのです」

 夏希さんは、一口大に切ったりんごを透明なプラスチックの器に移すと、ベッドの脇にある床頭台の上に置いた。それから、わたしの隣にパイプ椅子を置くと、見守るように病人の顔を覗き込んだ。彼女の表情は、子どもを心配する母親のように温かかった。

「今まではお互いに気まずくて会話することもなかったのに、あの穴の中に入っていると、なんだか自分が自分ではない気がしてきました。いつもは何を話して良いかわからず目も合わせることができないのに、そのときだけは違いました。おじさんと普通に会話できたのは、それが初めてでした。あの女の人は、私とおじさんのぎこちない関係を良くするための機会を作ってくれたのだと、わたしは勝手に解釈しました。でも、その時間は長くは続きませんでした。洞窟の奥に手を触れたおじさんは、突然、意識を失ってしまったのです。そして、その日からずっとこの状態です」

 彼が入院した経緯はようやく理解できた。四日前に彼が実家に帰って来たのだとすると、倒れてからもう三日ほど経過していることになる。

 夏希さんは心配そうに彼を見つめていた。わたしもまた彼を見ていると、《青木ヶ原樹海》で彼を発見できなかった別の未来を見ているかのような気分になった。

「この病室は、亡くなった母が最期に過ごした場所でもあるのです。今でも思い出します。まだ三歳で、母の病気のことをよくわかっていなかった私は、クリスマスの日、強力な鎮痛剤によって意識が朦朧としている母に、『はやくおうちにかえろう』と言いました。今思うと、とてもひどいことを言ってしまったと思います。でも、それまでずっとうつろだった母の目は、その瞬間だけ、はっきりと強い意識を持ったのです」

 そう言うと、夏希さんは私の方にからだを向けて、両手でわたしの両手を包み込むように握りしめた。それから、わたしの両目を食い入るように見た。伏し目がちな彼女とちゃんと目があったのは、これが初めてだった。わたしの眼球の中に潜む何かを確かめるように、しばらく瞬きもせずに見つめた後、彼女は深く息を吸って、再び口を開いた。

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