インサイド・アウト 第17話 デネブの塔(1)
《原点O》の森は、静かだった。
鳥のさえずりも聴こえなければ、虫の羽音も聴こえない。木の葉のすれ合う音も鳴らなければ、風がうなりを上げるようなこともなかった。数日前に訪れた《青木ヶ原樹海》とは異なり、ここは生命の息吹も風の気配もまるで感じられない。屈曲しながら伸びゆく木の幹は、地獄に落とされた罪人が天に助けを求めているかのようだった。
溶岩石の隙間から突き出す木の根を避け、奥へ、奥へと森を進みながら、僕は自分の記憶をさかのぼる。
「人は誰もが宇宙の外側へと抜け出す手段を持ち合わせている」と《左右対称の顔の女》は言っていた。初めてこの言葉を聞いた時は何を言っているのか理解できなかった。でも今なら少しだけわかるような気がする。ローブの男から話を聞き、夢の中で彼の人生を追体験したことによって、この世界の秘密を知ってしまったからだ。
この世には無数の宇宙が存在する。宇宙の中にたくさんの星があるのと同じように、この世界には想像を超えるほど多くの宇宙が存在している。そして、それらの宇宙はすべてこの《原点O》から誕生した。《原点O》で文明を持った生命体は、繰り返される侵略戦争に終止符を打つために、新たな宇宙を次々と創造したからだ。
でも、この《原点O》には、文明が栄えていたような様子は少しも感じられなかった。そう感じる理由は、森の中にあった。森には人間はおろか、動物や鳥の気配も感じられない。虫一匹現れない樹海の様子は、まるで一つの大きな生命体が死を迎えているかのようだった。数日前に訪れた《青木ヶ原樹海》が生の森だとすると、こちらはまさに死の森と呼ぶのが相応しいと僕は思った。
死と言えば、僕はこれまでの人生の中ですでに二度死んだと思っている。一度目は仕事で追い詰められて《青木ヶ原樹海》で首を吊ったとき。そして二度目は、実家の洞窟の奥に触れてこちら側の宇宙にやって来たときだ。
そう考えると、ローブの男である『S』もまた、二度死んだと言える。一度目は借金苦に陥って自身の死を偽ったとき。二度目は、自らの肉体と精神を実験台にして、脳の中に新たな宇宙空間を創り出したときだ。
《原点O》にやってきたときに僕が見た彼の姿は果たして本物だったのか、それとも実は単に意識が網膜に映し出しただけの幻影にすぎなかったのか、本当のところは自分でもよくわからない。だが、どちらにせよ、彼が現実と夢の双方から僕に語ったことはきっと事実なのであり、それを知ることに何か深い意味があるのだろう。
それにしても——と僕は思った。こちら側の宇宙で、ローブの男以外の人間にまだ会っていない。
一ヶ月ほど前、品川駅で僕のことを待ち伏せしていた黒ベストの男——等々力と話をしたとき、彼は、宇宙の外側から我々を監視し、侵略しようとしている《イレギュラー分子》から人類を守りたいと言っていた。その気になれば、彼らは宇宙を無に帰して、再び一から作り直すことができるとも。だが、しかし——。
宇宙の外側であるはずの《原点O》には、人間どころか、虫一匹見当たらない。人類が栄えていたような形跡すらもない。黒ベストの男が言っていたような懸念は、僕には何ひとつないように思えた。彼が漏らした《ゼアーズ》という言葉。そして彼とは別の人物が僕のマンションに送りつけてきた謎の手紙。封筒に施された白鳥の装飾と、埋め込まれた12個の小さな宝石。その手紙の末尾に書かれていた『論理を超えたもの』という意味深な宛名……。これまで僕の身に起きた不可解な出来事が、無意識に頭の中を回り、ひとつの答えを導き出そうとしていた。
この先で、僕を待ち受けているものは何なのか、まったくもって想像がつかない。だがここまできたら前に進むしかなかった。戻ろうにも、もう元の宇宙に戻ることはできないのだから。
木の葉の隙間からわずかに漏れる光を頼りに、僕はただ自分の動物的直感にしたがって、陰暗な樹海の底を彷徨い続けた。
いくら歩いても、森の中の風景は変わらなかった。元の地点から進んでいるのか戻っているのかもわからない。太陽の位置を確認しようにも、木々の葉が甲殻のように空を守っている。
と、そのとき——。
空気が動き始めた、と僕はふと思う。
気がつくと視界は少しずつひらけてきていた。それまで緑で覆われていた視界に黄色い彩りが加わり、前方から吹き込む暖かい風が、森の静寂を乱すかように木の葉を揺らす。
やがて森を抜けると、目の前に広がったのは、一面が黄色で塗りつぶされた空間だった。
そこは砂漠だった。
むき出しの太陽が砂を焼き付ける。その熱気が蜃気楼となり、連なる砂丘がだまし絵のように上下対称の不自然な立体を描いていた。食料も水も何も持ち合わせていない人間が足を踏み入れるのは、すなわち死を意味していた。だが僕は後戻りするつもりはなかった。このまま歩みを進めるしかない。この先の景色を自分の目で確かめなければならない。そう強く感じたのは、この砂漠の風景を、僕はどこかで見たことがあるような気がしたからだった。
砂漠の中を三時間ほど歩き続けた。砂に足を取られながら、いくつもの砂丘を超えた。途中で偶然オアシスを見つけて、そこで水分を補給することができた。食べ物は何も口にできていないが、不思議と腹は減らなかった。
やがて太陽が地平線と交わると、赤みを帯びたネイビーブルーの空に一番星が輝き始めた。それと同時に気温は急激に下がり、冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。体が思うように動かない。長時間歩き続けたことによって、僕の体力はすでに限界に達していたようだった。
砂丘の上から、どこか休めそうな場所がないか探した。しかし迫り来る闇が次々と辺りに影を落とし、遠くの方まで確認することはできない。
半ばあきらめかけて顔をうつむきかけたとき、すぐ下の砂丘のふもとに佇む木造の小屋が見えた。《原点O》に来て初めて目にする人工物だった。僕は急いで、砂丘を降りた。
小屋の周囲には特に何かがあるわけでもなく、広大な砂漠の中に、いかにも唐突な感じに建てられていた。誰が何のために作ったのだろう、と僕は疑問に思ったが、何はともあれ、この偶然に感謝するしかない。
木造の小屋は見た目以上に頑丈そうだった。ところどころに経年劣化による変色が見られたが、腐食している様子はない。窓ガラスは砂で黄色く変色していたが、ひび割れているような箇所はなかった。夜の冷気と砂塵を防ぐにはこれで十分だ。僕は引き戸を開けて、小屋の中に足を踏み入れた。
中は、六畳ほどの広さがあった。部屋の一辺には木製のベンチが備え付けられている。床はむき出しのコンクリートで、ところどころに指先ほどの小さな穴が空いていた。極めて簡易的な構造の小屋は、故郷の寂れた無人駅を彷彿とさせた。
だが僕が先ほど既視感を覚えたのは、この小屋が地元の無人駅に似ているからではない。四歳の頃に夢で見た砂漠の無人駅と瓜二つと言って良いほど、よく似ていたからだ。
炎天下の砂漠の中にぽつんと佇む無人駅のような建物。砂ぼこりで黄ばんだガラス窓。朽ち果てたコンクリートの床。この場所が夢の中だと疑ってしまうほど、細部まで一致していた。砂漠に吸い寄せられるように足を踏み入れたのは、この場所が僕を呼んでいたからなのかもしれない。
この奇妙な一致を不思議に感じながら、僕は木製のベンチに横になった。長時間歩き続けたことによって疲労が限界に達していた僕に、すぐに微睡みが訪れた。そこには「眠たい」と感じる隙はなかった。眠るための段階的なプロセスを一切経ることなく、僕は一瞬の間に、深い眠りの底へと引きずり込まれていった——。
気がつくと、僕は冷たい夜の底にいた。遮るもののない砂漠の空の下、月明かりは舞台照明のスポットライトのように窓ガラスを通り、コンクリートの床を青白く照らしている。
どのくらい眠っていたのだろうか?
ベンチから体を起こして、月明かりが照らすコンクリートの床を観察した。光はちょうど、夢の中で父親が地面に吸い込まれた辺りを照らしている。
僕は近くに寄って、そこにある小さなくぼみの中を見た。指先ほどの大きさしかない狭い穴の中に、所狭しと糸を張る、ちっぽけな蜘蛛の姿がそこにあった。
こちら側の宇宙に来て初めて見る虫だった。この厳しい砂漠の中で今まで精一杯生き続けてきたのだろう。しかし捕食する虫もいない《原点O》で、どうやって生きてきたのか。僕は不思議でならなかった。
そう考えると同時に、僕は急に嫌な予感がした。ここまで夢の光景が綿密に再現されているということは、例のアレも、近くにいるのかもしれない。
僕は恐る恐る、黄ばんだ窓ガラスから外を見た。
張りぼてのようなオレンジ色の月が、砂丘の陰からこちらを覗いている。その姿は、元の宇宙で今まで僕を導いてくれていた満月が、こちら側の宇宙でも変わらず僕を励ましてくれているように見えた。月が放つ光のおかげで、昼間と大差ない視界を得ることができた。
目線を下げて連なる砂丘の麓をつぶさに観察していくと、そこでうごめく何者かの姿を僕は確認した。一つだけではない。十、二十……いや、遠くに見えるものも含めると、百や千は下らないだろう。
ここからもっとも近くにいるその生物の姿をよく見ると、大きさと外見は、人間とそっくりだった。二本の足で、地面を歩行している。
だがそれが人間でないことは明らかだった。その頭部には、黒光りした頑丈そうな大顎に長い触覚、それから二足歩行生物には不釣り合いな複眼が付いていたからだ。
アリ人間。
まさにそう呼ぶにふさわしい未知の生物たちが、僕のいる小屋の周辺を歩き回っている。
そのとき、突然、耳鳴りがした。その音はぐんぐんと大きくなり、頭の中で強く反響する。
これは夢なんだ、と僕は思った。前と同じように、この耳鳴りのあとに僕の意識は肉体を離れ、この光景を上空から俯瞰することになるだろう。そして、広い砂漠を覆う不気味な生き物の集団と、それらに取り囲まれたちっぽけな小屋を視界に収め、夢から覚めるのだ。僕は胸をなでおろした。
しかし、どんなに待っても耳鳴りが止まることはなく、意識が飛ぶようなこともなかった。僕の目には、月光に照らされて黒光りしたアリ人間の集団が、何かを探すように夜の砂漠を彷徨う姿が映り続けている。
その中の一匹が、何かに気がついたかのように立ち止まった。それから満月の方を見た。そして、縫うように視線をこちらに移したと思うと、こちらに向かって歩き出した。その歩みには、少しの迷いも感じられなかった。
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