砂丘の満月

インサイド・アウト 第15話 原点O(4)

「Sの妻のもとに警察から電話がかかってきたのは、彼が家に帰らなくなって一週間後のことだった」と、ローブの男は声を落として言った。それから、そのときのやり取りを一言一句再現するかのように事細かく話し始めた。その話ぶりは、まるで自身もその場に居合わせていたかのようだった。

「警察は彼女にこのように切り出したんだ。『旦那さんが帰って来られなかった日、N駅近くにある老人ホームで大きな火災がありました』と。それから『実はその焼け跡から、旦那さんのものと思われる遺体が発見されたのです』と続けると、Sの妻は静かに息を飲み、そのまま黙り込んだのだった。

 受話器を持ちながら、彼女はその場に呆然と立ちすくんでいた。彼女は理解できなかったのだ。老人ホームに行くような用事などないはずなのに、なぜそこに夫は居たのか。そしてなぜ遺体となって発見されたのか。どんなに考えてもその理由がわからなかった。自分の思考が現実に追いついていないのか、それとも現実の方が誤っているのか、判断が付かなかった。これはきっと何かの間違いだと自分に言い聞かせた。何より夫の死を信じたくなかった。

 警察はさらに話を続けた。

『関係者の話によると、火災があったとき、施設には五人の老人が取り残されていたといいます。他人の手を借りなければベッドから起き上がることもできないご老人たちが外に脱出することはもはや不可能でした。誰もが諦めかけたそのときです。偶然近くを通りかかったSさんが、その方々を救出するために身一つで乗り込んでいったのです。そしてその甲斐もあり、四人の老人は大きな怪我もなく救出されました。しかし、残りの一人を助けるために再び炎の中に飛び込んでいったのを最後に、Sさんは二度と姿を表すことはありませんでした。探しに行こうにも、その時点で建物は倒壊寸前まで追い込まれていたのです。我々は、消火活動が行われるのをただ見守るしかありませんでした。

 炎が収まった後、我々はその焼け跡からSさんともう一人のご老人の捜索を開始しました。剥き出しの鉄筋と瓦礫ばかりの現場で、生きた姿で彼らを発見するのはもはや絶望的でした。あの激しい火災の中では、人間どころか微生物ですら生命活動を維持するのは困難でしょう。そう考えてしまうほど、現場は凄惨たる状態だったのです。

 せめて、ご遺族の方々にご遺体をお引き渡しできるようにと思い、我々はどこかで眠っているはずのお二人の亡骸をくまなく探しました。

 捜索は三日三晩に渡りました。そしてようやくご遺体を見つけることができました。しかし我々は、新たな問題に直面しました。そのご遺体が、果たしてSさんのものなのか、もう一人のご老人のものなのかを区別できなかったのです。そう……我々が見つけたのは、高熱で焼かれ、粉々に崩れて〈灰〉と化した、人間の変わり果てた姿だったのです。

 残された骨は、量から考えて、おそらく一人分のものだろうと考えました。しかし誰の遺体なのかはそれだけでは判断がつきません。その時点では、ご遺体がSさんのものではない可能性もあったのです。しかし、現場に不自然に残されていた幾つかの金属片によって、身元が判明いたしました。その金属片は、歯の詰め物や差し歯に使用されるものであり、生前資料と照合したところ、Sさんの歯に装着されていた素材と一致したのです。ご老人の方は、詰め物をしていない歯が二、三残っているだけでした。詰め物をしているのはSさんだけであり、その詰め物と同じ素材の金属が発見されたことから、そのご遺体がSさんのものだと確定したのです。それで、こうして奥さんに電話を差し上げた次第なのでございます。

 ご老人の遺体は、未だに見つかっておりません。しかし、おそらく我々がまだ発見できていないだけで、あの現場のどこかに埋もれているのは間違いないでしょう——』

 それからもしばらく警察官は話を続けたが、彼女はほとんど聞いていなかった。夫を失った事実を確かめなければならないという、配偶者としての義務感だけでそれまで平静を保っていた彼女は、その役目を終えた今、様々な現実が頭の中を巡っていたのだった。生きている夫と二度と会えないこと。その亡骸さえも〈灰〉と化してしまったこと。これから自分独りで子供二人を育てていかなければならないということ。途方もない喪失、孤独、責任……。それらの感情が波のように一気に押し寄せ、彼女の心は、まるで大きな穴が空いたかのような虚しさで覆い尽くされたのだった。

 それでも、命よりも大切な子供たちの姿を見ると、落ち込んでいる暇などなかった。食事の用意をしなくてはならないし、夜は寝かしつけなければならなかったからだ。忙しさによって彼女の気持ちは紛れていた。余計なことを考える時間がないのは、彼女にとっては好都合だった。

 役所に死亡届を提出し、葬儀を終えた頃には、彼女の心はすっかり落ち着きを取り戻していた。しかし現実問題として、これから先、子供たちを食べさせていかなければならないという問題に直面していた。いきなり正社員として雇ってくれる会社はないだろうし、パートタイムで働いても収入はそれほど期待できない。それに、そもそも体が弱くて安定して仕事することも叶わないかもしれない。

 弁護士を名乗る女から電話がかかってきたのは、日に日に苦しくなる生活に活路を見出せなくなり、暗く苦しい未来しか見えなくなっていたときだった。弁護士の女は、鈍ったナイフのように冷たく無機質な声で話し始めた。

『この度は誠に残念でした。実は、本日わたくしが電話を差し上げたのは、Sさんからの遺言をお伝えするためでございます。今回のように不測の事態が起きてしまった場合には、私から奥様に伝えて欲しいと、生前Sさんから承っておりました。ですが、遺言をお伝えする前に、先に申し上げておくべきことがあります。

 Sさんは、奥様に内緒で借金を抱えておりました。金額はおよそ400万円。事業に手を出して失敗したわけでも、誰かに騙されたわけでも、何かのローンを組んでいたわけでもありません。月々の生活費をまかなうためだけに、銀行やカード会社から借りたお金が積もり積もって、そのような金額になってしまったのです。

 Sさんはとても頭の良いお方でした。しかし、それが故に周囲からは断絶され、大学の中には居場所がなかったようです。給料も思うように上がりませんでした。自分一人であれば食べるのには困らなかったでしょうが、養うべき大切なご家族がおりました。そう、あなた方のことです。

 少しでも収入を増やすために、Sさんは大学での仕事を終えた後、夜遅くまでアルバイトに励んでおりした。時には帰宅が明け方になることもありました。奥様は旦那さんの帰りを待たずに先に眠り、旦那さんよりも遅く起きる毎日でしたので、このことをご存知ないでしょう。それにSさんは奥様に余計な心配をかけないように巧みな嘘をついておりましたので、もし帰りが遅いことに気が付いたとしても、何の疑念も持つことはなかったでしょう。

 ですが、そんなSさんの努力も虚しく、家計は毎月赤字続きだったようです。その原因は、奥様も心当たりがあるのではないでしょうか。胸に手を当てて、よく考えてみてください。毎月の決められた予算の中で、きちんとやりくりできた月はどれだけありましたか? 出費を抑えてほしいという旦那さんのお願いに対して、どれだけ真剣に考えましたか? 一度たりとも予算内に出費を抑えられた月はないのではないでしょうか。お子様の習い事やら、通信教育やら、学資保険やら、子供に与えるお菓子やら、その気になれば節約できる要素は山ほどあったはずなのに、出費を減らすどころか、お金の使い道を考えることばかりに知恵を絞っていたのではないですか?

 確かにあなたは体が弱く、仕事も育児も思い通りにならないでしょう。でも、それとこれとは別問題なのです。あなたはご自身の不健康を理由にSさんに甘えすぎていたのです。自分が楽になるのと引き換えに、Sさんを追い詰めていたのです。もしもあなたがSさんの異変に気付き、問題を共有して一緒に向き合ってさえいれば、彼が無謀な行動に走ることを未然に防ぐことができたはずです。あのときSさんが火災現場に飛び込んでいくこともなかったのです。これは単なる私の憶測かもしれません。ですが、どうしてもその考えを拭うことができないのです。

 私はあくまでもSさんの担当弁護士にすぎません。それ以上でもそれ以下の関係でもありません。ですが、同じ女性として、こればかりはどうしても奥様にお伝えしておかなくてはならないと思ったのです。すでに手遅れであったとしても、Sさんが生前に感じていた心の負担を奥様と共有しておかなければならないと思ったのです。そうしないとSさんも報われませんし、あなた自身のためにもならないと考えたのです。

 ところで、この世で一番の悪は何だと思いますか? 私は胸を張って答えることができます。それは〝自覚のない悪〟です。せめて自覚があるならば、その悪を正すことはできるかもしれません。ですが、本人に自覚がない場合、あるいは、本人が良かれと思ってやっている場合、それを是正するのは容易ではないのです。身近なところで言うと、戦争などはそういった類かもしれませんね。正義のため、国民のためと謳いながら、利益を享受できるのは一部の権力者であり、血を流すのは国民なのですから……。同じようにあなたは、夫のため、子供のため、家庭のためと主張しながら、夫の首を後ろから締め上げていたのです。どうでしょう。違いますか? こうして旦那さんが死亡したという事実を前にしても、まだ言い訳が通用するとお考えですか?

 ですが、私は別にぐちぐちと不満を述べるために電話を差し上げたわけではありません。あなたが何をどう考えようが、私自身の人生においては一切関係のないことですから。でもこのまま終わってしまっては、あまりにもSさんが報われないのではないかと思ったのです。生前、Sさんの口から言えなかったことを、お節介ながら私が代弁させていただいたのです。

 さて、話を元に戻しますね。ここからは肝心な遺言のお話です。Sさんは万一の事態に備えて、数年前から生命保険に加入しておりました。そして今回、不慮の事故に巻き込まれて帰らぬ人となりましたので、条件を満たし、あなたのもとに死亡保険金が下りることになります。金額は3,000万円。Sさんが残した借金を返済しても2,600万円ほど手元に残ります。これでしばらくの間はお金のことで気を揉む必要はなくなると思います。

 後日、生命保険の契約書をご自宅に送付いたしますので、書類に記載されている電話番号に連絡してみてください。すでに私の方から事情はお伝えしておりますので、手続きは滞りなく進むことでしょう。

 私からあなたに電話を差し上げるのは、これが最初で最後になります。旦那さんの保険金で生活しながら、私が話したことの意味についてしばらく考えてみてください。そして、どうすればこの先同じ過ちを犯さないのか、想像していただきたいのです。すでに失ってしまったものを取り戻すことはできませんが、新たに何かを失うことは防ぐことができるはずです。あなた方夫婦には全く関係のない第三者がこうして出しゃばったことを申し上げるのは不躾であることは重々承知しております。それでも、どうか少しでもご理解頂ければと思い、後世まで恨まれるのを覚悟に私はこのようなことを申し上げた次第なのでございます』

 電話を終えた後、Sの妻は、怒りでも後悔でもない、それまでの人生で味わったことのない不快感で心が一杯になった。自分と結婚さえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。自分と出会いさえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。自分がこの世に存在さえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。全部自分のせいなんだ……。自分さえいなければ……。存在さえしていなければ……。

 これまでの人生は良いことばかりではなかったが、それなりに前向きに楽しく生きてきたつもりだった。そんな彼女が、自己の存在を全否定したのは初めてだった。もしかしたら、Sは今までずっとこのような気持ちで暮らしていたのかもしれないと考えた。能天気で何も考えていなかった自分が恨めしかった。

 そんな彼女のもとに、さらに知らない人物から電話がかかってきたのは、それから半年後のことだった——」

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