中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第6話 記憶の欠片(3)

 簡単に最低限のメイクを落とし、シャワーも浴びずに自分の部屋に戻ると、玄関の方から両親の帰ってくる音が聞こえた。二人分の足音、買い物袋の音、ひそひそと会話する声。そこに「ただいま」の声はない。二人の中ではすでに空気以下の存在になっているわたしの居場所がここではないのはわかっている。だけど仕方がない。他にどこへもいく当てはないのだから。

 明かりを消して布団に入り、息を止めた。水槽の中で、亀がじっと息を潜めるかのように。存在感を消していれば、何も咎められることはない。言い争いになることもない。生きているかどうか心配されることはあっても、存在を疎まれることはない。

 昼間に珍しく友人と過ごしたことに加え、Sと電話したことで、疲労感はとうに限界を超えていた。この状態で瞳を閉じさえすれば、睡魔という名の天使は、すぐに枕元へと舞い降りてきてくれる。そのはずだった。

 落ち着かない気分だった。胸が必要以上に高鳴っている。両親が帰ってきたことに加え、SNSで偶然知り合った人といきなり電話をするという非日常的な体験をしたせいなのかもしれない。

 眠るのをあきらめ、深呼吸をした。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。それでもなかなか鼓動は収まらなかった。両親への恐怖心と罪悪感、それとSと会話したことによる興奮と緊張が落ち着いてくると、そこに残ったのは、不安感にも似た、モヤモヤとしたわだかまりだった。

 そのすっきりとしない気持ちの正体が何なのか、わたしは考えた。それは、Sが電話を切る際に残した「最後にマイさんと話ができてよかった」という言葉の〝最後に〟の部分が心に引っかかっていたからに違いなかった。聞き間違いではない。彼は確かに〝最後に〟と言い残して電話を切った。

 なぜSは今日、誰かと電話することを求めていたのだろうか。単に誰かと繋がることができればよかったのか。それともやっぱり何か聞いてほしいことがあったのだろうか。

 彼と電話していて、不可解に思った点を幾つか思い出した。

 彼は、樹海の写真をSNSに投稿していないと言っていた。《青木ヶ原樹海》の写真を彼が投稿していたのをわたしが見たことについて、「見間違いではないか」と言いながらも、彼は「不思議」だと言った。でも、何が不思議だったのだろう。

 それからペットボトルの蓋を開ける音。別に珍しいことではない。でも彼が新品のペットボトルの蓋を開けたときに鳴ったプラスチック音の響き方が、彼がいつもいる場所に居ないことを示しているような気がしてならなかった。

 そして、彼が夢について語ったときの「単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない」という言葉。彼が言っていたのは、彼自身が見た《砂漠の夢》についてのことなのだろうか。彼の人生の歯車が狂い始める起点となった夢。しかし夢に、人生を大きく左右する影響力があるとはやはり思えない。夢はやはり、単なる夢だ。それに夢の内容を聞いた限りでは、彼が仕事で追い詰められるまでの過程とは全く関係なさそうに思えた。それでも、これを単なる夢だからと軽んじて考えてはいけないのだろうか。わたしはわけがわからなくなった。ただでさえ疲労で鈍っている頭が、余計に回らなくなっていた。


 考えるのをあきらめ、窓の外を見た。暗闇にすっかり慣れた目には、カーテンの隙間から差し込む月の明かりがとても眩しく感じられた。その淡い光が、部屋の陰影を静かに浮き立たせる。

 月の光を頼りに起き上がりカーテンを開くと、目が合った。今にも沈みそうな肢体を起こし、あと一、二日もすれば満月になると思われるほど腹の膨れた大きな月と。

「誰かここから連れ去ってくれたらいいのに」とわたしは思った。繋いだ手を一時も離さずに、どこか遠くの地で、永遠にキスしてほしい。優しく、それでいて時に激しく。この月光に見守られながら。

 子供の頃からの現実逃避の妄想は、いい大人になった今でも少しも変わることがなかった。あの頃は、居場所のない窮屈なこの家から連れ出して欲しいと単純に願うだけだった。それが今では、この家からではなく、この世界そのものから連れ出してほしいと願っている。居場所がないのはこの家の中だけではなく、外も一緒だということを知っているから。

 カーテンを開けたまま、再び横になった。それから静かに瞳を閉じ、ここから連れ出してくれる誰かを想像しながら、自分の体を優しく撫でる。月明かりの下で重なる二つのシルエットを想像すると、ひとすじの雫が流れて枕を濡らした。時が経ち、時空を超えたその先でも唇を重ね続ける二人の姿に、自分の姿を重ね続けた。

 やがて月が沈んだことにも気付かず、わたしはそのまま眠りに落ちていった。


 わたしは夢を見た。

 あの日以来、ときどき見る夢だ。

 忘れた頃に必ず〝見せられる〟から、わたしは決してその夢を忘れることができなかった。そして、その忘れた頃というのが、どうやら今日のようだった。

 始まった途端、またこれか、と思った。これが夢であることに気が付いていても、自分の意思で夢から覚醒することはできない。

 この夢が何を示唆しているか、誰かに言われるまでもなく自分はわかっている。それは不吉な予言でもなんでもない。それは自分の深層意識でもあり、記憶そのものである。


 わたしは何者かに追われていた。誰なのかはわからない。人間なのか、動物なのか、生物としての形を成しているかどうかすらもわからなかった。この世のものとは思えない黒い影のようなものに追いかけられるのだが、今となってはその正体を確かめようと振り返ることはない。 

 死んだように静まり返った《灰色の町》の中、アスファルトの上を全力で駆け抜けていた。薄墨色の空は、今にも落ちそうなほどに重い。そろそろ黒い影を振り切れたかもしれないと思ったそのとき、道路は上り坂になり、徐々に足が重くなっていった。思うように力入らない。車輪が空転した自転車のように、脚を動かしている割になかなか前に進まなかった。やがてぬかるみに足を奪われたかのように足がほとんど動かなくなった。追っ手はすぐ後ろに迫ってきている。

 目の前に、高いビルが見えた。わたしは必死になってそのビルの中に逃げ込む。それから手すりをよじ登るようにして非常階段を這い上がった。自分の意思通りに上がらない足の代わりに、ほとんど腕の力だけで上へ上へと登っていく。振り返らずに、らせん状の鉄骨階段をねじのように進んだ。冷たい吐息を耳元に感じながら。

 ようやく屋上に到着した。でも、不思議と息は切れていない。空はさきほどよりも墨の色が濃くなり、ますます地表に迫ってきている。

 わたしはそのまま前方に走り続け、高い柵を飛び越えた。ここが何階なのかは全く考えていなかった。ただ何も考えずに、ビルから飛び降りた。大空を飛ぶ白鳥のように、両手を大きく広げて。

 そのように頭に描いたイメージに反して、わたしは真っ逆さまに落ちていった。重力によって容赦なく体は加速する。苦しい。風圧で呼吸はできないし、手足も思うように動かせない。風の圧が耳鳴りとなって脳に伝わる。

 こういう時に限って物理法則は忠実に未来を予測する。このまま頭からアスファルトの上に叩きつけられるのは時間の問題だった。でも、不思議と怖くなかった。今さらジタバタしても仕方ない。あとはいかに痛みを感じずに一瞬で逝くか。ただそのことだけに集中すればいい。それに、これでやっと、わたしは《あいつ》から解放される。

 指数関数的に増加した速度は、あっという間に地面との距離を縮めた。それからはっきりと意識を維持したまま、強い衝撃と同時に、視界が真紅に染まった。体は動かない。声を出すこともできない。耳も聴こえない。呼吸をしている感覚もない。

 誰かがわたしの前にやってきた。先ほどまで追っていた黒い影ではない。その人はうぐいす色のローブを羽織っていた。どこかで見たことのある姿だ。赤く染まった視界の隅から、その顔が垣間見える。男だ。見たこともない顔の男。

 その男は薄汚れた鏡を目の前に差し出してきた。そこに映っていたのは、頭部だけになった自分の姿だった。映画で見るような、首から下のない生首だけになった自分の変わり果てた姿を見ても、不思議と動じなかった。この光景は、つい先ほどうたた寝したときに見た夢と一緒だったからだ。わたしは、鏡を持つ男の顔を再び見た。

 しかしそこには男の顔はなかった。気がつくと周囲はいつの間にか深い森の中になっていた。アスファルトの上だと思っていた場所は、ベッドのように大きな深緑色の岩の上だった。わたしはうつ伏せに倒れていた。息ができる。耳も聴こえるし、唸り声を上げることもできる。体を動かすこともできた。

 深緑色の岩の正体は、隙間なく生えた分厚い苔だった。どうやらこの苔が緩衝材となり、わたしは一命を取り留めたらしい。

 起き上がり、その森の中をしばらく歩き続けた。すると、暗い森の向こう側から、こちらを照らす強い光が見えた。わたしは吸い込まれるようにそこに向かって歩いていく。

 いつもの夢と、少しだけ内容が異なっていた。いつもは高いビルの上から飛び降りると、強烈な痛みと共に目が覚めた。でも今回は、うぐいす色のローブを着た男が現れ、それから森の中のシーンへと移った。まるでスライドが無理やり差し替えられた映写機のフィルムのように。

 魂の抜ける感覚と共に、肉体は天へと上っていった。これは夢から覚める前兆だ。わたしはそのまま身を任せて、その心地良さにしばらく浸った。


 窓から注ぎ込む柔らかい陽光を感じて、目が覚めた。

 時計は朝の五時ちょうどを指している。

 悪い夢を見ていたにも関わらず、悪い気分ではなかった。むしろ少し爽快なくらいだ。それに頭もよく働く。

 夢の余韻に浸りながら、わたしは今見た夢のことを考えた。

 夢の結末は、いつもと異なっていた。ほんの些細な違い。これもSが言うように「単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない」のだろうか。だとすると、この小さな違いはとても重要なことなのかもしれない。

 夢の最後に見た森の情景をもう一度頭の中に思い描いた。わたしは、その森の景色にどこかで見覚えがあった。……どこだろう。そう遠くない過去に、一度だけそれを見たことがある。

 そのときふと思い浮かんだ。

 Sの投稿で見かけたはずの《青木ヶ原樹海》の写真。あの写真の景色とそっくりだった。無秩序でありながらも整然さを感じられる森。苔で覆われた岩と木の根。天からの救いの手のようにも見える木々の隙間から差し込む光。夢で見たのは、その神秘的な森の風景だった。

 しかしなぜ、わたしはこんな夢を見たのだろうか。Sの言葉が再び蘇る。「単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない」

 今まで見ていた夢に、あとから付け加えられたようなローブの男と樹海の森。もしかしたら、今まで夢の結末だと思っていた部分は、何かが始まる予兆だったかもしれない。そうだ。わたしが今まで見ていた悪夢は、きっと新しい物語のプロローグに過ぎなかったのだ。

 そう考えた瞬間、目の前の暗いとばりが開き、そこから光が差し込むのを感じた。

 そのときわたしは二つのことに気が付いた。まず、自分が本当に求めているものが何なのか。次に、Sが今どこにいて、これから何をしようとしているのか。

 わたしが見ず知らずのSと話したいと思ったのは、なんでもいいから誰かの助けになりたかったからなのだ。苦しんでいる人に手を差し伸べる。たとえ力になれることが何もなかったとしても、話だけでも聴く。それがわたしにできる唯一のこと。
「話を聴くだけなら誰にだってできる」と普通の人は考えるだろう。だけど今までわたしの話を聴いてくれる者などいなかった。そしてそれはSも同じ……。彼もまた、話を聴いてくれる人を求めていた。電話をしていたとき、確かに、わたしは誰かに必要とされていた。つまりこれこそが、わたしのこれまでの人生を意味のあるものにする唯一の手段なのだ。

 ならばわたしがこれからやることは、ただ一つ。

 あの場所に行かなくてはならない。

 Sがいるかもしれない《青木ヶ原樹海》へと——。


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