砂丘の満月

インサイド・アウト 第17話 デネブの塔(2)

 小屋の中で身をかがみ、アリ人間が小屋を過ぎ去るのを息を呑んで待った。足音は近づいてきては遠ざかっていく。その動きをしばらく繰り返していた。どうやらアリ人間は、この小屋の周りをぐるぐると回っているようだった。

 その間、時間がとてつもなく長く感じられた。立てつけの悪い引き戸が風でガタガタ揺れるたびに、直接的な死のイメージが脳裏に浮かんだ。アリ人間に、ありとあらゆる残酷な手段で殺されるシーンを想像した。呼吸は乱れ、全身の汗腺から汗が流れるのを感じた。数分後、足音はどこか遠くの方に消えていった。

 窓から外を見ると、アリ人間の集団が満月の方角に向かって去っていくのが見えた。彼らが完全に姿を消し、砂漠に再び平穏が訪れたのを確認すると、僕は引き戸を開けて小屋を出た。これ以上ここに留まるのは、危ないような気がしたからだ。

 これから向かうべき方角を定めるために、僕は夜空を見上げた。星はほとんど見当たらない。おそらくこの宇宙の大半の恒星は、その寿命を終えてしまったのだろう。だが、見慣れた星座は、まだいくつか残っている。

 月とは逆の方向に、北極星——こぐま座α星ポラリスがぼんやりと光っていた。そこから少し離れたところに夏の大三角形の2点を成す、こと座の一等星ベガとはくちょう座の一等星デネブが燃えるような輝きを放っている。

 そのとき僕は、はくちょう座をかたどる星々に対して妙な既視感を覚えた。遠くない過去に、どこかで僕はその輝きを見た覚えがあった。

 荒削りの宝石のような、まばらな輝きを放つ恒星。それらを線でつなぎあわせることで、宇宙という広大なキャンバスに白鳥の姿が浮き彫りとなる。その様子を頭の中で思い描いていると、先ほど感じた既視感の正体が次第に明らかになっていった。

《左右対称の顔の女》とはじめて出会った日の夜に、自宅マンションに届いた差出人不明の手紙。その封筒には、レースのような繊細な素材が施され、白鳥のシルエットが浮き彫りになっていた。ところどころに埋め込まれた大きさの異なる12個の小さな宝石は、まるで星のように、多彩なきらめきを秘めていた。

 それから、手紙の末尾に書かれていた「論理を超えたもの」というペンネームのようなもの。

 そういえば昔、「星言葉」というものを調べたことがある。誰がそんなものを考案したのかは知らないが、「花言葉」と同じように、星のひとつひとつに何らかの意味を与えるものだ。

 たとえば、ポラリスは、誠意と同情。ベガは、心が穏やかな楽天家。そして、はくちょう座の一等星デネブは、論理を超えたものへの関心——。

 これらの奇妙な一致は、偶然なのか、それとも必然なのか。

 疑問に思いながらも、僕は恒星デネブの輝く方角に導かれるように歩きはじめた。幼い頃、宇宙に対する関心を持つきっかけになった、太陽よりも大きな恒星の一つが、今こうして道しるべになっていることが、何だか不思議だった。

 今までのすべての出来事が、今この瞬間のために起きたことのように思えていた。四歳の頃に見た砂漠の夢。学習辞典に夢中になった幼少期。太陽よりも大きな恒星があることを誰にも信じてもらえなかった小学校時代。卒業制作で、太陽系の惑星をモチーフにした木彫りのオルゴール箱を作ったこと。宇宙物理学者をこころざすも、宇宙という途方もないものに無力感を覚え、絶望したこと。それから、姉の突然の死——。

 歩いている間も、デネブは同じ場所で輝き続けていた。まるで地球の自転の影響を受けていないかのように、北極星も、ベガも、その他の星々も、すべてがデネブを中心に回っているように見えた。

 最初は気のせいだと思った。だが、注意深く観察すればするほど、それは気のせいなどではなく事実なのだと確信しはじめた。

 この《原点O》における今の地球では、デネブが北極星の役割をしているのだ。地球の地軸は、約2万5800年周期で変化する。だから、天の北極を指す星も常に変化し続けるのだ。僕のいた地球ではポラリスが北極星だったが、ここではデネブが北極星の役割を担っているのである。

 僕は北極星に向かってしばらく歩き続けた。その間、アリ人間が再び姿を現すことはなかった。

 四、五時間歩いた頃、僕の目の前に、突然、山のような大きな影が姿を現した。それはブリューゲルが描いたバベルの塔を彷彿とさせる、円錐型の巨大な塔だった。レンガのような乾いた石で積み上げられ、らせん状に天を貫いている。そしてすぐ目の前には、塔の入り口がぽっかりと口を開けて僕のことを待っていた。まるで、僕が今ここに来ることを前もって知っていたかのようだった。

 恐る恐る、塔の中に足を踏み入れる。

 荘厳な雰囲気の外観とは異なり、塔の中は無機質でシンプルだった。白い床は汚れひとつなく、鏡のように反射していた。内壁は、金色の液体が入ったガラスの水槽で全面が覆われている。ひんやりとした空気が上から下へと流れる。塔の中心部には、巨大な皿のような円盤型の装置が、不自然に配置されていた。

 僕はその装置の上に乗った。すると、ゆっくりと上昇をはじめ、みるみる間に加速していく。どこまでも続く金色の水槽に見とれているうちに、円盤エレベーターはあっという間に最上層に到着した。

 仄暗い空間だった。

 足元から漏れる下層の光を頼りに、僕は辺りを見渡した。しかし、数歩先の地面さえも見えないほど、周囲は暗闇に包まれている。唾を飲む音が大きく感じられるほど、部屋の空気は止まっていた。

 どこからともなく、コツ、コツ、と音がする。その音は、少しずつ、しかし確実にこちらに近づいてきている。足音だ。革靴が床を叩く渇いた音が、僕のいるところに、ゆっくりと向かってきていた。

 その足音は、数メートル手前で止まった。そして、空気は揺れた。

「誰かと思ったら、あなたでしたか」

 聞き覚えのある、男の声だった。

 足音はさらに近づいてくる。

 香水の匂いとともに、男の長駆が正面に現れた。太いストライプのスーツを身につけ、鋭鋒のように先のとがった茶色の革靴を履いている。乱れのないツーブロックヘアー。そしてなぜか、このような暗闇にも関わらず、ティアドロップのサングラスをかけていた。

 僕はこの男に、一度だけ会ったことがあった。

「お久しぶりですねぇ、日並さん。お元気にされておりましたか?」

 何が起きているのか、理解が追いつかなかった。呼吸が乱れ、喉の渇きを感じる。そんな僕とは正反対に、男は余裕に満ちていた。まるで、ここで僕と会うことを予想していたかのようだった。獲物を見つけた蛇のような鋭い瞳孔をこちらに向けて、不敵な笑みを浮かべている。

「どうしてお前がこんなところに……?」と僕は訊いた。

「いやぁ、生身の人間と話したのは久しぶりですよ」、男は両手を広げて大げさに喜んだ。「いいですねぇ。新鮮です。もう長い間、私はひとりぼっちで暮らしていたものでしてね。でもまさか、あなたが再びこちら側に戻ってこれるなんて……。一体、どんな手を使ったんですか?」

 穏やかな口調だったが、男の目は少しも笑っていなかった。じりじりと巨体を近づけてきて、無言の圧力をかけてくる。もし今この男に突然襲われでもしたら、僕に勝ち目がないのは火を見るより明らかだった。

「そういうお前こそ、どうやってこっち側に来たんだ?」

 そう僕が言うと、男は急に黙り込んだ。そして、唐突に声を上げて笑い出した。「いやいや、なるほど、そういうことでしたか。あなたは向こう側の宇宙で、私の分身に会ったのですね? どうでした? 彼はしっかり私の指示を遂行してくれてましたか?」

 僕は何か思い違いをしているようだった。男の反応からして、どうやら僕のいた宇宙から来たわけではなさそうだった。となると、元々こちら側の宇宙にいたということなのか?

 ローブの男と話したときに、夢の中で見た光景を思い出した。あの夢はただの夢なんかではない。僕の遺伝子に刷り込まれた、Sの記憶の欠片。その記憶の中で、自身の私利私欲のために宇宙を掌中に収めようとした男がいた。

 夢で見た映像を思い出しているうちに、怒りが鮮明に蘇っていく。男は、Sの弱みにつけ込み、妻子の生活とひきかえにSの自由を奪った。それからもSの頭脳を利用し続け、永遠の命を手に入れ、宇宙を隅から隅まで開拓した。それでも飽き足らず、新たな宇宙を創造するために、男はSの脳を実験台にした。

 その男が、今、僕の目の前にいる。自らを神と称し、すべてを支配するもの。この《原点O》に内包される全宇宙の命運を握るもの。Sのかたきであり、Sとその家族のありふれた幸せを奪ったもの。

 男が持っているのは生半可な力ではない。どんな兵器も権力も通用しない。同じ空間にいる、この僕を除いては。

 ここではじめて、《左右対称の顔の女》が僕をこの宇宙に導いたわけが理解できたような気がした。彼女はきっと、この元凶を僕自身の手で始末する機会を与えてくれたのだ。

 等々力敦——。この男は、僕が今、ここで消さなければならない。こんな大男にかなうかどうかはわからない。でも、やらねばならないのだ。これでも一応、大学生の頃に少しだけ格闘技をやっていたことがある。思うように動けるかどうかわからないが、相手の意表をつくことさえできれば、何とかできるかもしれない。

 僕は強く拳をにぎり、息を呑んだ。一瞬の隙を狙い、息を整える。

 一、二、と数えたとき、等々力の呼吸がわずかに乱れるのを感じた。その瞬間を逃すまいと僕は思いっきり地面を蹴り、相手の懐に向かって、一気に踏み込んだ。

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