砂丘の満月

インサイド・アウト 第18話 灰色の町(3)

 アプリケーションを起動すると、東日本を中心とした日本地図が画面に表示された。地図上にはいくつも点があり、それらの点と点の間は、星座をつなぐ星座線のように線で結ばれている。それはSが身に付けていたスマートウォッチの位置情報の経緯であり、彼の行動の軌跡でもあった。

 六日前の夜に、Sは河口湖駅へと向かったらしい。そこで一晩過ごした後、《青木ヶ原樹海》へ行ってしばらく散策したのちに河口湖駅へ戻り、再びこの町まで引き返してきている。それから彼はすぐには自宅マンションに戻らず、一旦、駅近くのビルに立ち寄っていた。そこはわたしが訪れて意識を失った、喫茶『ロジェ』の場所だった。

 わたしがもといた宇宙の彼と、この宇宙の彼の行動はまったく異なっていた。この宇宙のSはそもそもわたしと出会っていないし、樹海からの帰りにホテルに立ち寄ってもいない。

 わたしはアプリケーションが示している彼の位置情報を追っていった。

 それからSはこのマンションに一度戻ってきて、夜を明かしている。そして翌朝、今度は東京駅まで出て、北に向かって高速で移動していた。15分おきに記録される点の間隔の空き具合が、彼が新幹線に乗っていたことを暗に意味している。青森県の八戸駅に到着した後は、今度は列車で海岸沿いを南下し、突然、何もない田舎の駅で降車している。そこから2kmほど内陸に進んだところで、彼の位置情報は途切れていた。スマートウォッチの信号を受け取れていないことを意味する〝LOST〟の文字と赤色の点が、その場所で虚しく点滅している。

 見たところ、スマートウォッチからの位置情報が失われてから、もう三日が経過しているようだった。

 Sの身に何か起きたのだろうかと、わたしは不安になった。もしかしたら、単にスマートウォッチのバッテリーが切れただけかもしれないし、あるいは——。

 青木ヶ原樹海を歩いている時、Sが言っていたことを思い出した。

 地球上の現在位置を測り知るための全地球測位システム(GPS)は、いくつもの人工衛星から信号を受けることで現在の位置を計算するという。だが、建物やトンネルの中のような障害物のある場所では、電波が弱まり、精度は落ちてしまう。ときには完全に位置情報をロストしてしまうこともあるらしい。

 衛星からの情報を受信するだけでなく、自らの位置情報を送信できるだけの電波強度が維持できないと、位置情報を知らせることはできないのだろう。

 ふと、わたしの頭の中で嫌な記憶が幻想となって蘇った。

 《青木ヶ原樹海》で自ら命を絶とうとしていたSの表情……。怒りや悲しみ、喜びの感情さえも捨て去った仮面のような無表情な顔で、その黒く冷たい瞳をわたしに向けた。工場の流れ作業でもするかのように、彼はビニールテープの輪の中に自分の首を通した。それから瞳をゆっくり閉じて、死の訪れを静かに待っている。

 ただの妄想であることはわかっている。それでも、彼の身に良からぬことが起きている気がして、なんだか落ち着かない気持ちになった。

 気がつくと、わたしはSが残していったスマートフォンを使って、彼の位置情報が途切れた地点へと行くルートを検索していた。

 3万円という限られた金額で行き来するためには、深夜バスを使うしかなかった。それに、新幹線と電車を使っても本日中に到着することは不可能だ。八戸駅まで行くことはできても、そこから南下するローカル線はその時間にはもう運行していない。どちらにせよ夜を明かすのであれば、移動と宿泊を兼ねられる深夜バスを使った方がはるかに安上がりだし、彼の信号が途切れた場所から最も近い町に直接行くことができそうだった。

 深夜バスの発車時刻まで、まだ4時間ほどあった。だが、これ以上ここに留まっていてはいけないような気がした。

 Sが残していったスマートフォンと文庫本をパーカーのポケットに突っ込んで、わたしは1LDKの部屋を後にした。


 階段で一階まで降りると、集合ポストの中に、今にもあふれんばかりに郵便物がぎゅうぎゅうに詰め込まれたポストが一つだけあるのに気がついた。そのポストの表札には名前はなく、「四〇四号室」とだけ記されている。

 Sの部屋番号だ、とわたしは思った。

 郵便物の一つを取り出して見ると、宛名には「日並 響」と書かれていた。

 ヒナミ、ヒビキ。

 これが彼の名だ。

 どこかで聞いたことがあるようで、聞いたことのない、不思議な名前だった。なぜだかわからないが、胸の中がきゅっと痛むような感覚がした。それでいて、どことなく懐かしい雰囲気も感じられる。

 でも、なぜなのだろう? 彼の名前のどこにも「S」の文字は登場していない。イニシャルでもなんでもない、ただのアルファベットの一つとしての記号に何のこだわりがあって自分のペンネームにしたのか、わたしには疑問だった。なぜ彼は自分のことをSと称したのだろう?

 再び、胸が痛んだ。今度は先ほどよりもキツく、思わずしゃがみ込んでしまった。

 同時に、過去の記憶が走馬灯のように流れていった。

 後悔ばかりの人生だった。罪悪感にずっと苛まれていた。だけど、今となってはなぜそんなに過去を悔いているのか、自分でもよくわからなかった。嫌なことはすべて記憶から抹消した。何も考えないように、自分を誤魔化して生きてきた。それでも、心に深く刻み込まれているものがあった。自分自身の経験ではない何かがそこにはあった。遺伝子に深く刷り込まれた何かが……。

 過去の記憶が一通り流れ終わると、今度は見覚えのない光景が、脳内で再生されていった。夫と、二人の子供に囲まれて暮らす幸せな日々。絵に描いたような典型的な家庭で、わたしは幸福で満ち溢れていた。夫は優しかった。どんなわがままも笑顔で聞いてくれた。専業主婦なのに家事がまともにできなかったときでも小言一つ漏らすことなく、料理や後片付けをしてくれた。子どもたちにも優しかった。「パパ、パパ」と父親を慕う声が家に響かない日はなかった。

 いつまでも続くものと思っていた。当たり前のものだと思っていた。自分には幸せになる権利があるし、幸せになって当然だと思っていた。

 だけどわたしは夫の本当の気持ちを考えていなかった。夫が何かに苦しんでいることは知っていたが、それが何であるのか、苦しみを取り除くために自分に何ができるのかを真剣に考えたことはなかった。

 夫は、ある日突然、いなくなった。そして一週間後の警察からの電話で、彼が事故に巻き込まれて亡くなったという連絡を受けた。だけどわたしはすぐに知ることになった。夫が生前苦しめられていたのは、お金に関することだった。わたしは夫や子どもたちのためを思い、日々の節約よりも子どもの習い事や衣食住の方を優先した。毎月、夫から言われていた予算をオーバーし続けた結果、わたしは夫に多額の借金を背負わせていたのだ。だから夫は自ら命を絶った。わたしは夫を殺したのだ。そして、そのひきかえに多額の保険金を手に入れた、罪深い人間なのである。

 物心ついた時から胸の中に渦巻いていた罪悪感の正体はこれだったのだ。歯がゆく、悔しく、悲しい感情がらせん状の渦となって、細胞の一つ一つを縛り付けていた。これは罪悪感などではない。罪そのものなのだ。わたしは取り返しのつかないことをした。だからその報いとして、罰を受けたんだ。罰として、女らしさを奪われ、愛情のかけらもない両親のもとに生まれたのだ。友人にも恵まれず、恋人ができなかったのも、すべて自分自身が好んで選択したことだったのだ。

 わたしは立ち上がり、マンションのエントランスを出た。それから駅の方角に向かって歩き出した。

 その時、はっきりと理解した。この命は、すべて彼に捧げるためにあるのだということを。三十七歳の、ある日を迎えるたびに自ら命を絶ち、この宇宙の再編を繰り返してきたヒナミヒビキを永遠の苦しみから解放するのが、自分に課せられた使命なのだと——。


 東京駅は、遅めの帰省客と仕事帰りの人たちであふれかえっていた。深夜バスのチケットを購入し、バス停の位置を確認した後、近くの階段を降りて八重洲地下街へと降りた。

 出発は22時45分。それまでまだ三時間ほど時間がある。地下の喫茶店でサンドイッチを注文し、適当に小腹を埋めた後、日並響のマンションから持ち出してきた文庫本をパーカーの左ポケットから取り出し、ページを開いた。好みの文体で書かれていて、気がつくと夢中になって読み進めていた。

 幻想的な物語で、ファンタジーなのかサイエンス・フィクションなのか、しばらく判断がつかなかった。本文中に会話文はなく、物語のほとんどは主人公の頭の中で繰り広げられていった。最後まで読み進めてみたが、結局、何が言いたいのかよくわからなかった。神話の世界のような話でもあり、人類の遥か未来を予見した話のようでもあった。

 『始まりのない物語』というのがこの小説のタイトルだ。著者は不明で、もともと日本語で書かれたものなのか、翻訳本なのかもわからなかった。よく見ると、出版社の名前も記載されていない。疑問に思い、著者名や発行者名が記されているページを探してみたが、そのような情報はどこにも見当たらなかった。



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