中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第8話 夢判断(2)

 東京駅で新幹線を降りた後は、中央線の快速列車に乗って新宿駅まで行き、そこで中央本線に乗り換えて大月駅に出た。そこからさらに乗り換えて終着駅へと向かう。河口湖駅に着く頃には、太陽はすでに子午線を通過していた。

 駅を出て、ちょうど目の前に止まっていたタクシーに乗り込むと、「どちらまで?」と上機嫌そうに運転手は言った。五十代くらいの中肉中背の男性だった。

 単に「青木ヶ原樹海」とだけ言っても、不審に思われるかもしれない。とっさにタクシーの車内に置かれている観光パンフレットの文字を拾い読み、急いで言葉を組み立てた。

「風穴(ふうけつ)を見に来たんですが、その付近までお願いできますでしょうか」

「あぁ、富岳風穴ですね。かしこまりました」、そう行ってドアを閉めると、運転手の男は嬉しそうにこちらを見て笑った。「そうそう、今ならまだ営業時間内ですし、もしお暇なら鳴沢氷穴にも行かれると良いですよ。今なら富岳風穴と鳴沢氷穴の両方の入場券が、セットだとお得に入手できるはずです」

 どうやら怪しまれてはいないようだ。いかにもトレッキング向けの動きやすそうな格好を選んで身につけてきたのが功を奏したのかもしれない。

 運転している最中も、ドライバーは饒舌に話し続けた。

「お勧めなのはね、まずは風穴に行って、それから遊歩道に入って樹海散策しながら氷穴に向かうルートですよ。適度に疲れて暑くなってきた頃に、氷穴のひんやりとした空気で体を冷やすのは、サウナの後に入る水風呂みたいで気持ちがいいものです。特に今日みたいな暖かい陽気の日はね」

 時間があれば行ってみたいスポットだったが、あいにく今のわたしは暇ではなかった。

 Sを探さなくてはならない。今までの数々の予兆と自分の直感が、彼が《青木ヶ原樹海》にいることを指し示していた。そして、根拠はないが、彼はきっとまだ生きている。電話越しに聞いた彼の息遣いのような低いノイズが、今もどこかで鳴っているように思えてならなかった。

「ねぇ、運転手さん」、わたしは思い切って訊いた。「わたしの他に、一人で樹海に向かった人を見ませんでしたか?」

「それは今日の話?」

「はい」とわたしは言った。

「そうだねぇ。今日はお客さんも含めて、他にもう一人だけいたかな……。でも、樹海に行くのにわざわざタクシーを使う方が珍しいからねぇ。私が見ていないだけで、一人で樹海観光に来る人は意外と多いと思いますよ。ここに来る人たちのほとんどは周回バスを使いますしね。まぁ……私の口から申し上げるのも何ですが、バスの方が金銭的に遥かに特だし、時間もこれと大して変わらないんですよ」

 周回バスがあるということを聞いて、タクシーに乗ってしまったことを一瞬後悔したが、今となってはどうしようもなかった。

「あの、実はわたし、現金があと二千円しかなくて……。もし足りなければ、途中のバス停の前で降ろしていただいても構わないので、出来るだけ近くまで行っていただけませんか?」

 懇願すると、運転手はルームミラー越しにこちらを見て言った。「ところでお客さんは、樹海に何しに行くの?」

「ちょっと知り合いを探しに……」

「恋人かい?」

 恋人? いや、わたしとSは恋人どころか、知り合いと言って良いかどうかも怪しい関係である。

「いや、知り合いの男性なんですが、実はまだ顔も見たことがなくて……」

「ははーん、いわゆる『ワケあり』ってやつですね」と運転手は手を顎に当てて、低く唸った。それから意を決したように膝を強く叩いて言った。「いいですよ! 今日は気前の良いお客様に恵まれたし、これも何かの縁ってことで、特別に私がタダで風穴まで連れて行ってあげますよ」

「いや、さすがに無料でお願いするわけには……」

 わたしがそう言うと、運転手はため息をついて言った。

「別にお客さんが女性だからこんなこと言ってるんじゃないですよ。これも何かの縁だと本当に思ったから。ただそれだけ。だから遠慮しないでそのまま座って到着を待っていてください」

 これ以上何を言っても聞き入れてもらえないだろうと思い、礼を言って、大人しくお言葉に甘えることにした。正直、出費が抑えられることは嬉しかった。よくよく考えたら、わたしは樹海に到着してからのことを一切考えていなかった。これからお金が必要になることもあるだろう。Sの捜索状況によっては、泊まりがけになるかもしれない。

「そういえば」と運転手は思い出したように言った。「お客さんを乗せる二、三時間前だけど、一人で来た三十代くらいの男性がいたよ」

 きっとSだと思った。

「その人は何か変わった様子はありませんでしたか?」

 運転手は少し考え込んでから言った。「変わっているといえば、何も荷物を持っていなかったことかなぁ。人柄とか外見は、至って普通の人だったよ。あとは、細かいお金を持ち合わせてなかったみたいで、目的地に着くとすぐに、釣りはいらないからと言って一万円札を置いて去ってしまったよ」

「その人はどこで降りたんですか?」

「そういえば彼もお客さんの行き先と同じ《富岳風穴》で降りたよ。ひょっとして彼がお客さんの探し人だったのかな?」

「そうかもしれない」とわたしは言った。

 でも、そうとは限らない。大型連休なのだから、一人旅する人がいても何も不思議ではない。だから彼である保証はどこにもない。だけど、そうとわかっていても、わずかに望みを抱かずにはいられなかった。

 街中から田舎道へ出ると、走行している車の数は次第に減っていった。雲ひとつない晴れた空の下、まだ多く雪の残る富士山が堂々と立ちはだかってこちらを見下ろしている。その圧迫感は、まるで樹海の砦を守る門番のようだった。

 森へと向かう途中、ビジネスホテルから観光者向けの格安コテージまで、様々な種類の宿泊施設の前を通った。何かあればこの辺で素泊まりでもさせてもらえばいい。それくらいに考えたが、たった二千円で泊まれる場所があるかどうかは不安だった。だがそのことは、後で考えればいい問題だった。

 道路に掲げられたイチゴ狩りののぼりを見て、「友美が来たのはここなのかな」と彼女が楽しそうにイチゴを摘んでいる姿を勝手に想像した。今も元気にしているだろうか……と、昨日会ったばかりの友人を、まるで何年も会っていないかのように懐かしく思った。

 窓から外を見ると、民家や建物の数が明らかに少なくなっていた。まもなく、この道は深い森へと入る。

 これ以上進んだら、もう決して故郷には戻れないような予感がした。Sを発見したあと、自分がどのような行動を取ろうとしているのか、自分でもわからなかった。少なくとも、そのままSと別れて実家に戻るシーンを想像することはできなかった。

 わたしはこれから、どこへ行こうとしているのだろう。

 再び、今朝、自分が見た夢のことについて考えた。

 正体不明の黒い影に追われる夢は、随分前から見ていたように思う。初めに見たのは小学生の頃だっただろうか。初潮が始まり、女らしさのかけらもないくせに体ばかりは一人前の女になっていく自分に辟易していたときだった。自分の存在に嫌気がさすだけでなく、父や祖父から罵られ、母からも邪険にされはじめて、我が家に居場所がないことを身を以て感じた頃から、わたしは何かに追いかけられる夢を見ることが増えていった。

 初めてその夢を見た時、わたしを追いかける者の正体は父だった。二度目に見た時は祖父になり、その次は母になったかと思えば、そのまた次はクラスを牛耳るいじめっ子の女子になった。そして五度目、その黒い影は、わたしのことを唯一大切にしてくれた優しい祖母の姿になっていた。以来、その夢を見ても黒い影の正体を確認していない。自分を追い詰めようとする者の正体が誰なのか、知るのが恐ろしくなったからだ。

 それでも初めの頃は、その気になれば空を飛んでその影から逃げることができた。自分は飛べる。そう信じることで、わたしは空を飛ぶ能力を手に入れることができた。夢の中では、強く望むことで何でも実現できた。

 しかしある時を境に、わたしは全く空を飛べなくなった。そして、黒い影に追い回され続けたわたしが取った行動は、ビルから飛び降りることだった。自分の秘めた力を信じて、ビルの屋上から両手を広げて飛び立った。だがその気持ちも虚しく、いつも決まって両の手は虚しく空を切り、重力に逆らえずにそのまま落下していくのだった。

 空を飛べなくなった《ある時》というのは、唯一家族と呼ぶことのできた祖母が亡くなった日だった。それから確実に、わたしの中の何かが崩れていった。


 気がつくと周囲は森と道路だけになっていた。乱雑に積み重なった溶岩石の隙間から突き出す木々と、それを切り裂くように横断するコンクリートの道路。その自然物と人工物が混ざったちぐはぐな景色を見ていると、厳しい大自然を開拓した当時の苦労した様子が目に浮かぶようだった。

 今にも森に飲み込まれそうな道路は、すっかり風化し、色褪せていた。コンクリートの表面には、雨や風雪に浸食されてできたと思われる小さな穴がぽつぽつと空いている。路面の細かい凹凸による振動がタイヤからボディに伝わり、低音のノイズとなってわたしの耳に響く。

 その音は、昨日電話越しに聞いたSの低い唸り声のように思えてならなかった。

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