砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(1)

 冷たい夜の底にいた。砂ぼこりで黄ばんでいる窓からは、月の光がスポットライトのように注ぎ込んでいる。体を起こして窓の外を見ると、連なる砂丘の隙間からこちらを覗き込むオレンジ色の大きな月が見えた。満月から三、四日が経過した後の、右側が少しだけ欠けた月だ。

 小屋の窓際に備え付けられた木製のベンチの上に、僕はいた。眠りから覚めたときのような気だるい感覚はない。砂漠の無人駅の夢の中で、コンクリートの穴ぼこの中に吸い込まれたときから意識は連続的に続いていた。しかし時間だけは、一瞬のうちに昼から夜へと変わっていた。

 どうして僕はここにいるのだろう?

 意識が飛び飛びになることにすっかり慣れ切ってしまった僕でも、自分の身に何が起きているのか理解するのに時間を要した。

 僕は等々力によって脳だけの状態にさせられ、自分の中に新たな宇宙を創り出した。その宇宙の中で僕は何度も自分の人生を繰り返した。何度も何度も同じ人生を生きてきた。そして、偶然見た《砂漠の無人駅》の夢の中で、小屋のコンクリートに空いている指先ほどの大きさの穴ぼこの中に吸い込まれた結果、今に至る。

 だけど、先ほどと場所は同じで、時間だけが変わっていた。陽炎が揺れていた昼間の熱気が嘘だったように、冷たい夜の静寂に包み込まれている。

 なぜ再びこの場所に来たのだろうか? そして、この感覚……。同じ空間で、時間が異なるだけのはずなのに、先ほどまでとは明らかに感覚が異なっていた。これは夢でも、自らの頭の中に創り出した宇宙の中でもなく、まぎれもなく現実なのだという感覚だ。

 僕は再びやってきたのだ。この世に存在するすべての宇宙のおおもとであり、等々力が支配する《原点O》の宇宙に。


 小屋の外の空気は一層冷えていた。アリ人間の気配はなく、砂漠は恐ろしいほどの静寂に包まれている。

 空を見ると、はくちょう座の一等星デネブが他の星より一層強い輝きを放っていた。

 あの方向に、等々力の住まう塔がそびえている。僕はそこへ行き、今度こそ等々力の企みを阻止しなくてはならない。《原点O》の宇宙において、人類をひとり残らず脳だけの存在にし、自己の存在を永遠にするためにすべてを踏み台にしてきた男。奴から全宇宙を解放し、水槽の中から《左右対称の顔の女》を助け出すのが僕が使命なのだ。

 夜の砂漠を一歩、また一歩と踏み出していく。風はほとんどないが、微風が肌を撫でるたびに寒気で身震いするほど空気が冷たかった。月は空高く昇り、道しるべのように闇の遙か向こう側を照らした。地平線の先から天を突き刺すほどの高い塔が次第にその姿をあらわにする。この感じだと、塔に到達するまで三時間以上はかかるだろう。

 月が沈む前に、塔に到達しなければならない。そんな気がした。太陽が昇るまでまだしばらく時間がありそうだ。月が沈んでしまったら、外は暗闇に包まれてしまうだろう。闇の中でも、デネブを目印にすれば塔には到達できるかもしれない。でも僕には、明かりを失うことで何かとんでもなく恐ろしいことが起こるような気がしてならなかった。


 塔まであと一時間あまりで到達するかと思った頃に、月は沈んだ。砂漠は影を失い、限りなく闇に近い暗がりの中に僕はひとり残された。それでも僕はデネブの輝きだけを頼りに、前に進んだ。しかしそれと同時に、不穏な気配が周囲に漂っていることを感じ取っていた。

 気がつくと、僕は黒い集団に取り囲まれていた。はっきり視認することはできないが、ずっと先の方から僕に向かってくる集団の姿があった。四方八方を見ても、どの方向からも一様に、黒い集団は向かってきていた。

 アリ人間だ、と直感が告げていた。夢の中で見たのと同じように、アリの頭部を持つ二足歩行生物に、僕は取り囲まれてしまったのだ。

 なぜなのか? 決まっている。アリ人間たちは等々力の命令によって侵入者である僕のことを捕らえに来たのだ。そして再び脳を取り出し、実験台にしようとしているのかもしれない。

 どうしよう。逃げるか? いや、逃げるといっても、そもそもどこに逃げればいいのだろう?

 周囲を見回すが、逃げられそうな場所は見当たらない。何もない真っ平らな砂漠の真ん中には、地下に続くシェルターのようなものは見当たらない。当然、空を飛ぶこともできない。

 だけど、そう考えている割には、どこか冷静な自分がいた。その気になればどうにでもできるという妙な自信があった。

 本当に僕は、この状況をどうしようもできないのだろうか?

 そんなことを考えながら、両方の手のひらを見る。自らの中に創り出した宇宙の中で、僕は意のままに世界の創造と破壊を繰り返してきた。その力をこちら側の世界でも発揮することができたなら? そうしたら、目の前にいるアリ人間の集団だけでなく、等々力だって、意のままにできるかもしれない。

 目を閉じて、意識を集中する。取り囲んでいるアリ人間たちの動きが止まっているイメージを強く持つ。

 すると突然、頭に激痛が走った。あまりの痛みに地面にしゃがみ込む。体中の筋肉が弛緩仕切って、まったく身動きがとれない。

 呼吸を整えて、全身に酸素を巡らせる。こんなところでやられてしまうわけにはいかない。一刻も早く、体を動かさなければ。

 やっとのことを目を開けると、先ほどまで僕を取り囲むように近づいてきていたアリ人間たちの動きが止まっていた。デネブの塔に向かって、通り道が切り開かれていた。

 何が起きたのだろう?

 僕は再び自分の両手を見る。この感覚は、やっぱり夢なんかではない。夢の中でも意識をはっきりと保っていられるという「明晰夢」でもない。これはまぎれもなく現実である。空気が皮膚に触れる感覚、冷たい夜の匂い、かすかな風の音、そのどれもが、これが現実であることを証拠づけている。

 頭を横に振る。

 余計なことを考えている場合ではない。この隙に、塔へと一気に走り抜かなくてはならない。僕が生き残れる術は、それだけだ。

 今度は目を閉じることなく、意識を一点に集中した。自分は限りなく強靱な脚力を持ち、疲れを知らない肉体を持っていることを想像した。イメージが脳内で具現化された瞬間、僕は地面を思いっきり蹴っていた。

 速い。まるで高速道路を走る自動車のように、僕はものすごいスピードで走っている。一度地面を蹴るだけで、一瞬のうちに百メートル近くの距離を進むことができる。

 僕は確信した。現実であるにも関わらず、まるで夢を見ているときのように、自分の意思で身体能力を向上させることができるようになっている。しかし、規模が大きければ大きいほど、頭痛や脱力感という形で肉体にダメージが伴うのだ。

 だけど、どうして突然、こんなことができるようになったのだろう。

 考えながら、アリ人間たちの隙間を縫って僕は塔の方に突き進んだ。だが、アリ人間たちが僕を追ってくるスピードも驚異的だった。一瞬の間、動きを止めていた彼らも、猛然と走り抜ける僕の姿を確認するやいなや、僕に劣らない速度でこちらに向かってきた。何百、何千という群衆が一気に向かってくる様は、まるで獲物に群がる虫の集団と同じだった。この場では間違いなく獲物は僕だった。

 突然得られた自分の能力を過信していたのも束の間、僕はアリ人間たちに捕まりそうになっていた。前方に回り込まれ、もうダメだと思ったそのとき、僕の体は宙に浮かんでいた。

 もしかして、飛んでいる?

 飛行機が離陸するかのごとく、僕の体はみるみる間に地面を離れていった。先ほどまで僕のことを追い回していたアリ人間たちは、本物の昆虫のアリを見ているかのように黒いつぶになっている。

「よかった。今度はちゃんと助けられた」

 耳元から声が聞こえた。女の人の声だ。聞き慣れた声ではないけれど、どこか懐かしさを感じる、温かい声だった。

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