砂丘の満月

インサイド・アウト 第16話 おとぎの国(1)

 カーテンのすき間から漏れ入る光で、わたしは目を覚ました。

 睡眠導入剤を飲んで眠りについた日の翌朝のように、からだがまったく動かなかった。あたりを見回そうにも、首を上げることすらできない。どうやら相当疲れているようだ。わたしは無理にからだを動かそうとするのをやめて、重いまぶたを再び閉じた。

 少し遅れて、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。

 ここはどこなのだろう? 人の家にしては生活感に欠けていたし、ホテルにしては少し味気ない感じがした。わたしは再び目を開き、眼球だけを動かして、周囲の様子を確認した。

 病室だった。点滴台からはチューブが垂れ下がり、左耳のあたりに続いていた。その反対側では、心電図のようなモニターが聞き慣れない電子音を発しながら、三つの波形を描いている。どうやらわたしは、病院のベッドで横になっているようだった。

 再び目を閉じて、断片的な記憶の時系列を正す。


 わたしは、Sと共に《青木ヶ原樹海》のホテルに泊まっていた。そこで彼から色んな話を聞いた。幼い頃、この世界から抜け出すために家の庭に深い穴を掘り続けていたという話。顕微鏡で見た脳の神経細胞と、宇宙物理学者たちがコンピュータ・シミュレーションで作り出した宇宙の構造がほとんど同じだったという話。中でも特に印象に残っているのは、彼が四歳の頃に見たという、不思議な夢の話だった。

 彼から夢の話を聞いた後、眠りの中で、わたしの夢と彼の夢が繋がった。深い樹海から両手を広げて飛び立ち、わたしは彼のいる砂漠の無人駅へと飛んでいった。そこで、幼い頃のSと対面した。

 眠りから覚めると、樹海のホテルにいたはずのわたしは、都会の見知らぬマンションの一室にいた。わけのわからないまま、ガラステーブルの上に置かれていたスマートフォンとキーケースを勝手に持ち出し、部屋を出た。電車の走行音の鳴る方向に何となく歩いていき、たまたま見つけた喫茶店へと入った。カウンター席に座って注文を待っているとき、わたしは何者かに話しかけられた。その瞬間、意識を失ったのだった——。


 そして今わたしは、病院のベッドに横たわっている。

 しばらく待ってみたが、どんなに時間が経過しても、体の感覚が戻ることはなかった。手足を動かすことはおろか、からだを起こすこともできない。

 わたしは、数年前に自殺未遂したときのことを思い出した。あまり覚えていないが、あのときも確か、こんな感じだったような気がする。全身が重く、痺れるような感覚。数日間は指先を動かすこともままならなかった。眼球の毛細血管が内出血を起こし、糸くずのような影が視界にあちこちに浮かんだ。飛蚊症と呼ばれるその症状が軽くなるのに、一年以上もかかった。

 だが今は、その当時と比べて異なる点がいくつもある。あのときは全身に鋭い痛みが走り、呼吸するのも精一杯だった。それに対して今回は、体のどこにも痛みを感じない。呼吸だって苦しくない。飛蚊症の症状はまだわずかに残ってはいるが、意識を失う前と変化はない。ひどい頭痛があることを除けば、何も不可解な点はないように思えた。からだら、まるで空気にでもなったかのように軽い。

 それなのに、微動だにすることができないのはなぜなのか。

 わたしは誰かを呼ぼうと口を開け、何度も声を出そうとした。しかし、声帯が空気を震わすことはなく、その度に虚しく空気の抜ける音がするだけだった。

 自分の身に何が起こっているのか理解できず、わたしはだんだん恐ろしくなった。どうしてからだが動かないのか。どうして声も出せないのか。どうして病院のベッドに寝ているのか。
 
 それからどのくらい経ったのだろうか。この病室に向かって、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。

 病室の扉が開く音がすると、白衣を着た中年の男がわたしの視界の中に入ってきた。聴診器を首にかけ、「Dr.」の肩書きのついたネームプレートを胸ポケットにつけている。

「気がついたのですね」と医師の男は言った。

「ええ、先ほど目が覚めました。ところで、ここはどこなのですか? わたしの身に何が起きたのでしょうか?」——そう言いたくても、声にならない声が、喉を虚しく通過するだけだった。

 水中から飛び出した魚のように口をぱくぱくと開閉するわたしに構う様子もなく、「それでは検査をはじめますね」と医師の男は言った。「これから私はいくつか質問をします。質問の答えがイエスなら、まばたきを一回。ノーなら、まばたきを二回してください。……わかりましたか?」

 そのまま医師はわたしの目を見つめ続けた。しばらく経ってから、男の質問はすでにはじまっていることに気がついた。わたしは慌てて、一度だけまばたきをした。

「なるほど。どうやら、聴覚は正常なようですね」、男は淡々と言った。「それでは最初の質問です。まず、あなたは自分が誰であるか認識していますか?」

 わたしは一回、まばたきをした。

「質問を続けます。あなたはなぜ病院のベッドに寝ているか、その理由をご存知ですか?」

 今度はまばたきを二回。

「では、あなたは今、自分がどのようなお姿になっているか、ご存知ですか?」

 少し考えて、わたしは二回まばたきをした。

「なるほど。では、あなたは今、自分がどのようなお姿になっているのか、実際に確かめてみたいと思いますか?」

 自分がどのような姿になっているのかを確かめたいか。その質問の意味するところが、理解できなかった。次第にわたしは、自分の身に起きていることを察し始めた。先ほどから体の自由が効かない理由が、やはり何かあるということなのだろうか。手足を動かせず、首を傾けることもできず、言葉を発することのできない理由——。それを確かめるべきか、わたしはしばらく考えた。

 沈黙が流れた。考えている間、医師の男は表情一つ変えずに、わたしのまぶたをじっと見つめていた。

 悩んだ末に、わたしは一回、まばたきをした。

 その決意を審議するかのように、医師の男はしばらく視線をそらさなかった。やがて納得したのか、「ふむ」と喉を鳴らすと、白衣のポケットから薄汚れた手鏡を取り出し、わたしの目の前に差し出した。

 そこに映っているものを見て、わたしは自分の目を疑った。そこにあったのは、首から下が無い、頭部だけになった自分の変わり果てた姿だった。

 これは悪い夢なのだ、とわたしは思った。ここ最近、わたしの夢に何度か登場してきたローブの男のせいで、幻を見ているに違いない。

 声を上げ、必死にからだを動かそうとした。悪夢から覚めたいときは、このようにすれば大体目覚めることができるからだ。こんなの、いやだ。こんなの。誰か、助けて——。

 しかし、いつまで経っても夢から覚めることはなかった。医師の男は黙々とカルテに何かを書き留めている。その姿にわたしは狂気のようなものを感じた。よく見ると、男の目は、獲物を前にした獣のように生き生きとしていた。狂ってる。この男も、この世界も、このわたしも、すべてがすべて、狂っている。

 男は、絶望に狂うわたしの表情を見て、満足そうに微笑んだ。そして鼻歌を歌いながら、弾むように病室を出ていった。

 結局のところ、あの医師は何をしたかったのか、わたしには理解できなかった。でもきっとこれだけは確かだろう。あの男こそ、このわたしをこのような姿にした犯人なのだ。自分の手術の腕を確かめたくて仕方なかったのだ。理由はわからないが、あいつはわたしを実験台にした。わたしの胴体から頭部を切り離し、頭部だけで脳の活動を維持できるようにしたのだ。

 そのとき、モニターに映し出された波形が、激しく揺れた。波形の様相は、感情の起伏にしたがって変化しているようだった。これは脳波計なのだ、とわたしは察した。脳が正常に機能しているかどうか、あの医師はこれで監視しているのだ。

 わたしはしばらく、自分が頭部だけの姿になってしまったことを受け入れられなかった。だが、目覚めた時から感じていた違和感を鑑みると、事実であると認めざるを得なかった。動かない手足。空気のように軽すぎるからだ。出せない声。よくよく考えてみると、呼吸すらしていなかった。心臓の鼓動も感じられない。わたしは、頭部につながれた何本ものチューブによって、かろうじて生命を維持されている状態だった。

 このままずっとこの姿で生き続けることを想像すると、今すぐ死んでしまいたい気持ちになった。今まで何度となく死にたくなることはあったが、ここまで絶望的な気分になったのは初めてだった。今の状況を考えると、これまでのことなど大した問題ではなかったのかもしれない。首だけの姿で何もすることもできず、何年も何年も生かされ続ける苦痛と退屈を想像したら、親と不仲であることや、他人に否定されることなんて、本当に些細なことのように思えた。

 だが、こんな体になってしまった今、もうわたしにはどうすることもできない。このまま、それこそ不毛な人生を生き続けなければならないのだ。これが本当の生き地獄であり、本当の絶望なのだろう。そのことに気がついた今になって、これまでの不甲斐ない自分に対して、悔恨の念で胸がいっぱいになった。

 もう、考えるのはよそう。わたしが人間であることも、忘れてしまおう。心を無にすれば、楽になるはずだ。

 しかし、そうやって気をそらそうとすればするほど、気は滅入り、希死念慮は増す一方だった。それならば、まだ現実の自分と向き合った方がましだった。頭部だけの姿になって絶望に暮れている自分を認めた方がはるかに楽だった。

 やがて、わたしの中に不思議な現象が起きた。自分の中に、もう一人の自分が存在するような感覚。もう一人の自分が、失意に落ちている自分を上の方から眺めている感覚。わたしは、何も考えずに、自分をただ客観的に眺めている。単純なことだったが、案外、悪い気分ではなかった。それどころか、気持ちが少しだけ和らいだような気もした。

 わたしはすべてを受け入れた。受け入れるしかなかったからだ。否定したところで、自分の力ではいかようにもならない問題だった。これは変えることのできない現実。力の及ばないことについて、あれこれ思い悩んでも仕方がない。

 そのとき、突然、病室の扉が開いた。

 先ほどの医師かもしれないと、わたしは警戒した。だが、視界に現れたのは医師の男ではなく、見たこともない女だった。女は、就職活動中の学生のように、皺一つない黒いリクルートスーツを身に付けていた。

 彼女の顔に、思わずわたしは見とれた。きれいに整いすぎていたからだ。まるで神の創造物のように、完全なる左右対称の顔を持っていた。その人は透き通った瞳で、わたしを見つめていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?