インサイド・アウト 第20話 夢と現実の狭間で(2)
日並響が身に付けていたスマートウォッチのGPS信号が途切れた地点に到着したのは、駅から歩き始めて一時間ほど経った頃だった。そこは国道沿いの小高い丘の上で、築四十年ほどの古い鎧張りの平家が建っていた。
テニスコート二つ分ほどありそうな庭はひどくぬかるんでいて、自動車のタイヤの跡がいくつも残っていた。おそらく、昨晩あたり雨が降ったのだろう。家の右側に、旧型の黄色いハイエースが停まっていた。年老いた番犬のようにじっとこちらを見たまま動こうとはしなかった。ナンバープレートは外され、外装は長年の錆びですっかり朽ち果てていた。タイヤのホイールが剥き出しで地面に深く突き刺さっている様子を見る限り、庭のぬかるみに轍を残したのは、どうやらこの車ではないらしい。裏庭に密生しているクマザサは家の横側まで浸食してきていて、今にも老犬を飲み込もうとしているように見えた。
家の玄関に近づくにつれ、胸が高鳴っていくのが自分でもわかった。ここには誰が住んでいるのだろう? あたりを見ても表札のようなものは見当たらない。玄関脇の壁に備え付けられた金属製の赤い郵便受けはひどく風化していて、雨除けの部分にこぶし大の穴が空いていた。そしてその横に、八分音符のマークが刻印されたインターホンのボタンがあった。
わたしは深呼吸をして、ゆっくりとボタンを押した。人差し指でぐっと強く押し込んだはずなのに、おもちゃのインターホンでも押しているかのような手応えのなさだった。ピンポーン、という聞き慣れた音が鳴っている様子もない。念のため、もう一度押してみる。今度はさっきよりも強く押し込み、そしてゆっくりと離した。しかし、結果は同じだった。郵便受けの雨除けと同様にインターホンもまた、本来果たすべき機能をすっかり失ってしまっているかのようだった。
この付近に彼がいるかもしれないのに、ここまで来て何も収穫が得られないのは、さすがに悔しかった。それに、こちら側の世界ではもう、他に行く当てはない。これで駄目なら、このあと何をすればよいのか、わたしには皆目見当がつかなかった。
幸い、周囲に歩道や民家はなく、わたしのことを不審者扱いするような人はいない。後ろめたさを感じつつも、玄関の引き戸に手を添えた。留守だったら鍵は閉まっているだろうし、もし開いていても、すぐに「ごめんください」とでも言えば、何も問題はない。
引き手にぐっと力を込めた。しかし、ぴくりとも動かない。今度は、体重をかけて、さらに強く横に引く。するとようやく、重々しい振動と共に、戸は少しずつ動き出した。それからすぐに戸車とレールが軋んで悲鳴のような轟音が鳴り響き、黒板を爪で引っ掻いたときのような強烈な不快感が背筋を這った。
やっとのことで戸を開き終えると、今度は対照的に、家の中は水を打ったようにしんと静まり返っていた。玄関には、紺色の長靴と白いサンダルが脱ぎ散らかされていた。一歩踏み込んで、ごめんください、と言ったが、誰かが出て来る様子はない。やはり誰も住んでいないのだろうか? 廊下は左右両側に別の部屋に続く戸があり、どちらも侵入者を拒むように隙間なく閉められていた。廊下の突き当たりはL字型になっていて、その奥がどうなっているのか、玄関先からでは確認することができなかった。
さて、これからどうしたものか? さすがに勝手に家に上がってしまうのはまずい。やはりあきらめて引き返した方がいいのだろうか。それとも——。
ウォォォォォォォン、
わたしが悩んでいると、背後からケモノのうなるような声が聞こえてきた。慌てて後ろを振り返る。しかしそこには動物どころか虫一匹いない。それでも、くぐもった声は相変わらず遠くの方からぐんぐんと迫り上がってきていた。丘の下の方からだ! 声は次第に大きくなり、やがてその主が姿を現した。それは声ではなく、軽自動車が高速にエンジンを回転して丘を登って来る音だった。
白の軽自動車の側面には、泥が飛び散った跡があった。泥がすでに乾いている様子から、今しがた付いたものではなく、この家を出るときに付着したものだと推測できた。庭に残っていた轍の正体はこの軽自動車なのだろう。とすると、この車に乗っている人が家の住人に違いない。
家の築年数から考えて、家主は六十代から七十代と思われたが、車から降りて来たのは、まだ十八かそこらの、幼さが抜けきっていない若い女性だった。車のドアを強く閉めると、彼女はわたしを一瞥することなく、玄関脇の郵便受けのところへ行き、扉を開いて食い入るように中を見た。そして、そこから一通の封筒を引っ張り出すと、女は再び車に戻った。それからようやく思い出したように窓を開けて伏し目がちにわたしの方を見ると、助手席に乗るように指で合図をしてきた。
少し戸惑ったが、わたしは思い切って助手席に乗り込んだ。これを逃したら完全に次の手を失うことになるからだ。だが、全然理解できない。なぜ、あたかもわたしがいることが当然かのように素通りし、郵便受けから封筒を取り出し、再び車に戻ったのか。そして、不審者であるはずのわたしを車に乗せたのだろうか。
警察に連れて行こうとしているようには見えない。もしそのつもりなら、わたしの存在に気がついた時点で携帯電話で通報するだろう。
「……ベルト」
わたしが考え込んでいると、若い女性はフロントガラスから目を離すことなく言った。美しい横顔だった。化粧をしていなかったが、それにより、整った顔立ちがむしろ際立って見えた。恵まれた器量に対して、スウェットパンツにアディダスのTシャツを着ているだけの非常にシンプルな格好だった。これで軽く化粧をして、お洒落をし、愛想が良ければさぞかし異性にモテるだろうに、とわたしは羨ましく思った。肩ほどまで伸びた髪は寝起き直後のようにまとまりに欠けていた。他人にどう見られようがまったく興味がないようだった。
「ベルト、締めてください」
「あ、すみません」
わたしは慌てて返事をして、シートベルトを締めた。カチリと音が鳴るのとほぼ同時に、彼女は勢いよくハンドルを切り返して車の向きを変えた。それから丘を下り、わたしが来たのとは逆方向に車を走らせていく。
運転席に座って無言でハンドルを握る女がどこに向かっているのかは見当もつかなかったが、敵意のようなものは感じられなかった。車は歩行者のいない田舎町を淡々と走っている。対向車線から向かってくるのはほとんどが大型トラックだった。たまにすれ違う軽トラックは、おそらく地元の住民なのだろう。ダッシュボードの上にはカーナビが置いてあり、自車位置を示すマークが地図の中央に表示されていた。どうやら国道を南下しているらしい。同車線では、前を走る車も後ろから来る車もいない。空はいよいよ黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。
「これ、なんて書いてあるか読んでもらえますか?」
女は前方を見ながら、先ほど郵便受けから取り出した封筒をわたしの目の前に差し出してきた。差出人の住所も、氏名も、書かれていない。グリーティングカードのような分厚い紙質の封筒には、小さな宝石がいくつも施されていた。まがいものにしては美しすぎる輝きを放つ12個の宝石が、はくちょう座の星座を模って、封筒の表面に丁寧に埋め込まれていた。
Sと一緒に寝た夜、夢の中に現れた男の子は言っていた。あの世界では、はくちょう座の『尾』の場所で輝いている《デネブ 》が北極星であり、その方向に、男の子が目指す『塔』があるのだと。封筒をよく見ると、《デネブ 》の位置にある宝石は他と比べてやや大きく、一層強い光を放っていた。
「わたしがここに来たのは——」
「響おじさんを探すためですよね」
どこから話すべきか思いあぐねていると、まるでわたしの考えていることをすべてを見通しているかのように女は言った。
「どうして、それを?」
わたしが戸惑っていると、女性は深くため息をついて、ダッシュボードの上に封筒を置いた。それからゆっくりと口を開いた。「ごめんなさい。あなたには、何が何だかわからないですよね。私の名前は日並夏希と言います。響おじさんの姪です」
日並夏希と名乗った女は相変わらず前を向いたままだったが、先ほどまでと違って、よそよそしい雰囲気はなくなっていた。
「夏希さん……って言うんですね。どうも、はじめまして。わたしは——」
「麻衣さんですよね」と彼女は間髪入れずに言った。
「なぜわたしの名前を?」
驚きのあまり、声がうわずった。
「やっぱり。姿は異なりますが、何となく雰囲気が似てるなぁって思いました」
「……似てるって、誰に?」
「一ヶ月前、私を訪ねてきた女の人に、です」
もちろん、わたしと彼女はこれが初対面だし、一ヶ月前に誰かと会った記憶もない。
目の前の信号が赤に変わると、夏希さんはお手本のようなブレーキの踏み方で滑らかに車を停めた。悩ましげに腕組みをして、「うーん」と深く唸っている。
「こんなことを言っても信じてもらえないかもしれませんが、聞いていただけますか?」と彼女は言った。それから、わたしの反応を待たずに彼女は話を続けた。「その女の人は言ったんです。響おじさんが〝向こう側〟に行ってしまった後、ここを誰かが訪ねてくるだろうって……。私は訊きました。『その人は誰なの?』と。すると、その女の人は言いました。『それは男の人かもしれないし、女の人かもしれない。もし男の人なら、決して心を許してはいけないけど、もしも女の人なら、それは私自身だから、安心して何でも頼ればいい』、と」
「ごめんなさい、全然意味がわからない」
「私もわかりませんでした。だから、もう一度尋ねたんです。それはどういう意味ですか、って。でも、その人は答えてくれませんでした」
信号が青になると、彼女は再びスムーズに車を発進した。慣性力を感じさせることなく、車はみるみると加速していった。寂れた港町は、まるで時が止まっているかのように見えた。そのとき、雨がぽつぽつと降り始め、フロントガラスを濡らし始めた。彼女が再び口を開いたのは、雨滴感知機で作動したワイパーが二度往復した時だった。
「私は質問を変えることにしました。『一ヶ月後に私を訪ねてくるかもしれない女の人は、過去か未来からタイムスリップしてきた麻衣さん自身なんですか』と……」
わたしは息を飲んで話の続きを待った。雨脚は一気に強くなり、フロントガラスを滝のようにすべり落ちる雨水の流れを、軽自動車の小さなワイパーが懸命に拭っている。
「……その人は否定しました。『過去から来るのでも、未来から来るのでもない。一ヶ月に訪ねてくるのは私自身であり、私自身ではない』。それ以上のことは、もう、教えてはくれませんでした」
そのときわたしは、一ヶ月前に彼女のもとを訪れた女性は《左右対称の顔の女》なのだと確信した。《左右対称の顔の女》は言っていた。私はあなたであり、あなたは私なのです——と。
「そして、その人はもうひとつ、私に重大なことを教えてくれました」と夏希さんはつぶやくように言った。「まもなく世界に終末が訪れる。でも、皆が想像するような、わかりやすい終わり方はしない。そう言っていました」
皆が想像するような、わかりやすい終わり方とはどんなことを指すのだろうかとわたしは思った。夏希さんは、どこか物憂げな表情を浮かべて話を続けた。
「私たちが気付かないうちに、この世界も、この世界に住むすべての生き物も、〝何者か〟に利用されるために存在させられている可能性があるそうです。誰からも干渉されない純粋な宇宙で生きているのではなく、悪意に満ちた改ざんだらけの宇宙で生かされている可能性がある、と。これは、そう遠くない未来の話かもしれないし、あるいは、単に私たちが気付いていないだけで、もうすでにそのような時代は到来しているのかもしれません。ところで麻衣さんは、本当に恐ろしい独裁社会とはどういったものか、ご存知ですか?」
わたしは首を横に振った。
「本当に恐ろしい独裁社会というのは、社会にとって都合の良い人たちに対しては正義の味方ぶって支持を集めるのです。そして、社会にとって邪魔だったり、どうでもいいような人たちに対しては、表面上の美しい世界だけを見せておいて、裏では容赦なく搾取する。搾取される側の人たちは、自分たちが搾取されていることに気付くことはありません。自分たちの考えが及ばないところで勝手に順位付けされ、待遇が決められているのです」
話を聞いていて、わたしにはひとつ思い当たる節があった。病院の一室で怪しげな二人の男が話し込んでいた時、その部屋のテレビから重大なニュースが流れていた。アメリカのホワイトハウスをはじめ、イギリス、フランス、ロシア、中国の要所で、同時にクーデターが起こされたというニュースだった。わたしの感覚が正しければ、これは未曾有の大事件のはずだ。にも関わらず、東京駅からここに来るまでの間、事件のことを話題にしている人は一人もいなかった。日本人特有の危機管理能力の無さが顕著に表れているだけだと言われたら、確かにその通りなのかもしれない。所詮、他国で起きている出来事である。しかし、これだけ大規模なクーデターが起きたとなれば、日本でも同じようなことが起こると考えるのが当たり前ではないだろうか。そんな日に、国の交通機関の心臓部である東京駅の構内で警戒のアナウンスが流れることもなければ、深夜バスの運行が取りやめられることもなく、平常通りに運行されるのはあまりにも不自然のような気がした。
「すみません。ちょっとお借りしますね」
夏希さんに一言断りを入れ、わたしはカーナビの「オーディオ」ボタンを押してワンセグテレビを点けた。選択可能なチャンネルを一通り選択して、放映されている番組をチェックする。どの曲の放送を見ても、あの事件のことには触れていない。生で放送している昼のワイドショーでさえも、大して重要でもない芸能人のスキャンダルを取り上げ、適当なコメントでスタジオの笑いを誘っているだけだった。雨音を上回る大きさで、乾いた笑い声が車内に響き渡る。まるで最初から事件は起きていなかったかのように、液晶画面の先では普段以上に平穏な日常が流れていた。
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