中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第10話 仕組まれた邂逅(3)

 限りなく満月に近い月が、山の隙間からこちらを覗いている。

 わたしとSは、普段の運動不足が仇となり、歩き始めて二時間ほどですでに体力の限界が近づいていた。飼い主から無理矢理散歩に連れ出された老犬のように、狭い歩幅で歩んではすぐに立ち止まり、思うように前へ進むことができなくなっていた。

 特にSは、何度もこむら返りを起こし、その度に座り込んで足裏の筋を伸ばした。このままのペースだと街に着く前に日が登ってしまいそうだった。

 息を切らしながら、Sは言った。「タクシーが来ないなら、どこか風雨をしのげる場所で一旦休んだ方がいいのかもしれない」

 周囲を見ても、そのような都合の良い場所は見当たらなかったが、ふと、ここに来るときにタクシーの窓から見た風景を思い出した。

「多分、あと少し歩けば宿泊施設の一つや二つは見つかると思うわ。タクシーでここに来る時に、幾つかそういう施設があるのを見た覚えがあるし……」

 そのような会話を交わしてからも、かれこれ三十分ほども歩いていた。

 さすがにこれ以上歩くのは限界かもしれない。そう思い始めた時、「ご休憩」と書かれた看板が見えた。

「今日はあそこに泊まりましょうか」と看板を指差して言うと、微妙な間のあと、彼は「別にいいけど」と小声で言った。

 よく見ると、その看板には次のように書いてあった。

 ご休憩(税込)1時間2950円より
 ご宿泊(税込)6900円より
 メンバーズカード 当日より、使用OK!

 ラブホテルだった。

 ピンク色と水色で覆われた派手な外装、それからレンガ造りの豪華なエントランスは、誰が見ても一目でそれとわかるものだった。先ほどのスタンド看板が、わたしのことを見てほくそ笑んでいるような気がした。

 恥ずかしさのあまり固まっているわたしの脇を通り抜け、Sは何も感じていない様子でそのままエントランスへと進んでいった。

 慌てて中に入ると、彼は無人のパネルの前に立ち、慣れない手つきで部屋を選んでいた。それから手続きを終えた彼に、わたしは黙って後ろから付いていく。

 床に敷き詰められた赤い絨毯は、見た目以上に薄く、足音が廊下中に響き渡った。何人か客が入っているようだったが、その割には静かだった。まるで二人だけで古びた洋館に閉じ込められたような気分だった。

 薄暗い階段を昇り、廊下を突き当たりまで進んだところにあるドアの前で、Sは一旦立ち止まった。それからドアを開けて中に入ると、カビ臭さとタバコの煙が混じり合った異臭が脳を突き刺した。

 部屋にはクイーンサイズのベッドと黒い合皮の二人掛けソファ、それからガラスのサイドテーブルが置かれていた。壁には50インチほどの薄型テレビも備え付けられている。まさに「事を済ませる」ための必要最低限の体裁を整えるための家具が、スライドパズルでもしているかのように狭い空間に要領よく配置されていた。奥にはバスルームのようなものもある。

 ベッドにうつ伏せに倒れこむSの後ろで、わたしは財布の中身を確認した。家に帰る分のお金を除くと、たったの二千円しかない。宿泊料を割り勘したとしても、まだ不足している。

「ごめん……言いにくいんだけど、二千円しか持ってないんだ。わたしはソファでいいから、一緒に泊めてくれないかな?」

 体をうつ伏せにしたまま、顔だけをこちらに向けたSは笑って言った。

「麻衣さんって変わってるよね」、そのあとSは起き上がり、ベッドの上にあぐらをかいて座った。「女の人って、こういうときは『男の人にお金を出してもらって当然』みたいに考えるのが普通かと思ってた」

「女の人が全員そうだとは限らないよ。わたしみたいに、特に可愛くも女らしくもない子は特にね」

「ふうん」とSは言って、仰向けに寝転がって天井を見た。「だからと言って、ソファに寝られても落ち着かないから、二人でベッドに寝ない? こんなに広いんだし、勿体ないよ」

 誘われているのか、それともただの心遣いなのか、わたしには区別がつかなかった。かといって、せっかくの提案を断るわけにもいかない。それに、どちらかがソファで寝るのは確かに勿体無いし、何か違うような気がした。

「ありがとう」、そう言ってわたしは彼の提案を受け入れた。持ち合わせの二千円を支払うかどうか迷ったが、そっと財布の中に仕舞う。また後で、改めて埋め合わせをすればいい。

 だけど果たして、彼に埋め合わせする機会はあるのだろうか。もしかしたら、その機会は二度と訪れないかもしれないと、心の中で何となく感じていた。


 シャワーの音がする。

 カビとタバコの混じった独特な匂いに、すでに鼻は慣れていた。

 Sがシャワーを浴びている間、湿っぽいベッドの上で、カビで黒ずむ天井を眺めながらわたしは考えていた。

 わたしはこれから、どこへ行こうとしているのだろうか?

 今はこうして、Sと出会い、同じ部屋で一晩を明かそうとしている。

 でも、そのあとはどうするのだろう? 明日は? 明後日は?

 明日、どこかの駅で別れたあと、わたしは実家に戻るのだろうか?

 Sもまた、昼くらいから職場に出勤して、もとの仕事中心の生活に戻るのだろうか?

 自分のやったことに意味があったのかどうか、わからなくなっていた。もしわたしがここにさえ来なければ、Sは自らの命を絶つことに成功し、苦痛の日々から解放されていたのかもしれないのだ。

 自分のことで精一杯なのに、Sの人生に介入する資格が、果たして自分にあったのだろうか? 他人の死を引き止め、その後の責任をとれるだけの物質的余裕と精神的余裕をわたしは持ち合わせているのだろうか?

 言われなくてもわかっている。そんなもの、わたしにはない。

 過去に対しても未来に対しても絶望しかないのに、Sの人生に大きく介入した事を、徐々にわたしは後悔し始めていた。心が、海の奥深くまで沈んでいく。

 ——そのとき突然、天井を眺めるわたしの目の前に、Sの心配そうな顔が飛び込んできた。

「どうしたの?」

 静かな声が、深海まで沈んでいた心を一気に現実に引き戻した。Sは病人を見るかのようにこちらを見つめている。髪は濡れ、無精髭はきれいに剃られていた。血色は見違えるほど良くなり、全身からはシャワーの熱気の余韻が放たれている。

 わたしは、訊いてはいけないと思いつつも、思っていた事をSに訊いた。「Sさんは、明日からどうするの?」

「さあ、何も考えていない」

「でも本当は、明日から仕事なんだよね?」

「うん」とSは言った。

「でも、このままだと——」

「このままだと、明日は行けそうもないね」

 そう言うとSもまたベッドの上に乗り、わたしと同じように仰向けになった。「川」の字の真ん中の線がないくらいの距離感で、わたしたちはお互いの間隔を探り合う。

 しばらく沈黙が続いた。

 次に口を開いたのはSだった。

「僕は追い詰められると、いつも必ずどこかに逃げ出そうとした」とSは語り始めた。「幼い頃は、どこかに逃げたくなって、家の庭に深い穴を掘った。深く深く掘り続けた。やがて諦めて穴掘りはやめたんだけど、頭の片隅には、ずっと『この世界から抜け出したい』という思いが残っていて、その考えは歳を重ねるにつれてどんどん大きくなっていった。
 大人になってから、僕はこの世界から抜け出したいと思ったときには、この広い宇宙のことを考えるようにした。僕たちのいる地球とは別の地球。あるいは、この宇宙とは別の宇宙が存在しているところをイメージした。世界は広い。そう考える事で、嫌な事を些細な出来事として片づけられるようにしたんだ。
 ところで麻衣さんは、脳の神経細胞と宇宙の構造が似ているという話を聞いたことはある?」

「ううん、初めて聞いた」

 Sは話を続ける。「顕微鏡で見た脳の神経細胞の様子と、宇宙物理学者たちがコンピュータ・シミュレーションで作り出した宇宙の構造がほとんど一緒だった、という話があるんだ。その研究結果が示していることは、11次元から成ると考えられているこの宇宙と同じように、脳も11次元構造を持つのではないかということだった。だからね、自分の頭の中にそのような未知の空間が広がっていると考えると、もしかしたら自分自身の中にこそ、逃げる場所があるんじゃないかって思ったんだ」

「わたしもよく、どこかに逃げたくなる」

 逃げたくなる。

 逃げるのはいつだって自分の頭の中だ。そこにあるのは「自分の、自分による、自分のための楽園」——そこでわたしは黒い糸を吐き続ける蜘蛛と共に、この世の全てを呪い続ける。

 次の瞬間、自分でも信じられない行動を取っていた。わたしは、離れて寝ているSの手を握り、自分の方に引き寄せた。

「ごめん。少しだけでいいから」

「……うん」

 そう言うと、Sはわたしの肩に手を回し、優しく抱きしめた。単なる気休めに過ぎないことはわかっている。それでも、徐々に気持ちが穏やかになっていった。服の上からただ抱き合っているだけなのに、一体になっているような充足感があった。心地良さが全身を包む。暖かさを感じる。鼓動が徐々に共鳴していく。頭の中の黒い糸が、浄化されていく。

 涙が流れていた。

 助けに来て欲しかったのは、きっと、わたしの方だったんだ。


 それからわたしは、永い眠りに落ちた。
 そして再び、いつもの《あの夢》の中へと潜っていった。

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