中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第1話 左右対称の顔の女(4)

「念のため確認させて欲しいのですが、『お迎え』とは一体どういう意味ですか?」と、僕は左右対称の顔の女に尋ねた。

 少しだけ間を空けて、女は言った。「あなたは先ほど、ご自分の人生にそこそこ満足していると仰いましたね?」、僕が頷くと女はそのまま話を続けた。「あなたは心の中でこのように考えたはずです。暗く険しい荒野のような人生を、自らの力で切り開いてきた。昔の状況と比較して、現在は自分の思い通りになっている。だから、満足といえば満足していると言える——と」

 女は射抜くようにこちらを見た。

 確かに当たっていた。考えていたことの要点としては、女の言う通りだ。だけど腑に落ちないことがたくさんあった。

「確かに、概ねそのようなことを考えていました。どうやったのかは知りませんが、僕が考えていたことをうまく要約してくれたと思います。でも僕はまだ最初の質問にすら答えてもらえていません。少し時間はかかりましたが、こっちはあなたの質問にちゃんと答えました。だから、これ以上話を進める前に、これからする三つの質問に答えていただけますか?」、それから指を一本ずつ立てながら言った。「まず最初に、僕たちは今までどこかで会ったことがあるのか? 次に、なぜ僕なのか? そして最後に、先ほど言っていた『お迎え』とはどういう意味なのか?」

 女は、目の前に立てられた三本の指に視線を移し、それからこちらに視線を戻して言った。

「まず、わたしたちは過去に一度も会ったことはありません。次に、あなたのもとに来た理由はちゃんとあります。今はまだお伝えすることはできませんが、あなたでなければならなかったのです。そして最後に、『お迎え』というのは一種の比喩のようなものです。そのように伝えればわかっていただけると……」

「比喩なのはわかっています」、僕は女の話を中断して言った。「問題はそれが僕の想像通りの意味かどうかです」

「ならばその推測はおそらく当たっているでしょう」と女は表情一つ変えずに冷たく言い放った。

「ならば、僕を殺してあの世に連れていくという意味ですか?」

「……そうですね。半分は正解ですが、半分は違います。わたしは、あなたを殺したりはしません。ですが、生きるか死ぬかはまた別の話です。行き先に関しては『あの世』と考えて差し支えないでしょう。こちら側が『この世』なら、あちら側を『あの世』と呼ぶのは文法的に間違っていませんからね。——さて、そろそろ話を戻してもよいでしょうか?」

 女の答えはどこか噛み合っていないように思えたが、僕は仕方なく頷いた。女はそのまま話を続ける。

「あなたは自分の人生にそれなりに満足している。そして、その人生を自分の力で切り開いてきたと考えている。ですが、実はこれまでの人生は、すべてあなた自身が『選択した』ことだとしたらどうしますか? ……と言っても勘違いしないで頂きたいのですが、不遇の人生をご自分の力で切り開いてきたその涙ぐましい努力を称えているのではありません。わたしが申しているのは、『それ以前』のことに対してです。あなたが恵まれない境遇と考えている、生まれた環境、親、国、時代——そのどれもが、言葉通りすべてあなた自身で『選択した』ものだとしたら——」

「……僕が選択した?」

「ええ、そうです」、女は頷いて話を続けた。「そして、そう遠くない将来、他ならぬあなた自身の選択によって、今まで以上の絶望がやがてあなたの前に立ち塞がるでしょう。でも、今のうちにこの世界から抜け出しておけば、そのような絶望を味わう必要はなくなるというわけです。つまり、あなたが絶望の淵に落ちて這い上がって来れなくなる前に、今このタイミングであなたをこの世界から連れ出そうと申しているのです」

 この女の言うことは常軌を逸していた。生まれる環境も、国も、親も、自分で選択できるわけがない。それらはどう足掻いても本人に選択権は無いものである。

 生まれた後のことであれば、ある程度コントロールすることはできるかもしれない。だが、生まれる環境をコントロールすることなど、どう考えてもできるわけがない。僕たちは自らの意思に関わらず、ある日突然、この世界に生まれ落ちるのだ。その落下地点とタイミングを自分の都合で決めることはできない。それが常識であり、自然界の絶対的な法則なのだ。歴史上のどの偉大な科学者に問いかけたとしても、この考えに反対する者は一人としていないだろう。

 話の内容自体は非常に馬鹿げていた。考えるにも値しないものだとわかっていた。それでも、女の言葉には不思議と説得力があった。女の真剣な表情と自信に溢れた語気に加え、身体中から醸し出されているミステリアスな雰囲気のせいかもしれない。

 否定することができなかった。得体の知れない、同じ人間とは思えないほど完璧な左右対称の顔を持つ人物が語る謎かけのような話に、次第に好奇心を抱き始めていたことを。因果関係は不明だがおそらく何らかの偶然で出会うことになったこの女に対して、必然的に興味を持ち始めていた。偶然出会った人物に必然的に興味を抱く——そんな三流詩人のような言葉を思いつきながらも、女の話をどこまで真剣に聞くべきか悩んだ。

 左右対称の顔を持つ女は、そんな僕の心を読んだかのように優しく微笑み、まっすぐに目を見つめながら言った。

「必要な条件が整えば、辿るべきプロセスは自然と導き出されるのです。その条件は、あなた自身が選択しているのです。例えば、ボールを投げる時、狙っている場所に応じて速度や角度を調節するでしょう。それと同じことです。あなたが自らの意思によるものだと信じて疑っていないものは、自らが整えた条件により必然的に辿る道筋だったということです。そして申し上げたように、すでにあなたは選択してしまっているのです。そう遠くない将来、二度と抜け出すことができないと思うほどの大きな絶望に陥ることを——」

 女の顔からはすでに微笑みが消え、元の無表情の顔に戻っている。

 彼女の話のどの部分から解きほぐしていけばいいのか考えていた。それはまるでもつれ合った糸のように簡単に理解できるものではなかった。

 少なくとも、これ以上の問答は不毛のように思えた。結局のところ、女の真意が読めなかったからだ。

「すみませんが、あなたの提案を受け入れることはできません。そのような非現実的な話は嫌いではないですが、突然目の前に現れて、この世から抜け出すためにお迎えに上がったなどと言われて、信用できるわけないじゃないですか。大体、僕がこのまま絶望に陥ろうが、あなたには関係のないことでしょう。僕を助けることで、あなたに一体どんな利益があるというのですか? 何を企んでいるかわかりませんが、僕にはあなたの話に乗る理由がありません。せっかくなのでコーヒーはありがたく頂戴します。ですが、あなたもそのコーヒーを飲み終えたら、どうかお引き取り願えませんか?」

 女はしばらくこちらを見つめていたが、やがて諦めたのようにため息をついた。

「まあいいでしょう。現段階で、あなたがそのような反応を示すことは想定内でした」、女の顔に一瞬だけ失望の色が浮かんだように見えた。「時間はまだ残されています。ですが、遅かれ早かれその時は必ずやってくるでしょう。その時期を具体的に言い当てることはできませんが、話すのはその直前でもまだ間に合うかも知れません。もしそのとき日並(ひなみ)さんの考えが変わっていたら、またお話ししましょう。今度は満月でも眺めながら——」

 女は突然立ち上がり、店の出口へと向かった。三歩進んでから女は振り返り、再び優しく微笑んでからテーブルの上に視線を落とした。そこには、コーヒーカップが二つと、僕が先ほどまで読んでいた小説が置いてあった。

「その本に挟んでいるしおりのように、必要な時が来ればこの話の続きから再開することができるでしょう。ですが、しばらくその時が来ることは無さそうですね」、それから女は俯いて言った。「言い忘れましたが、話の順番が若干おかしくなってしまい、申し訳ございませんでした。ですが、どうしてもこのようにせざるを得なかったのです。その点はどうかご了承ください。それではまた」

 女は軽く会釈をし、店の外へと出て行った。急いで後を追おうとしたが、女はすでに街の雑踏に紛れ、どの方向に歩いていったのかもわからなくなっていた。彼女を追うのをやめ、再び席に座った。

 女は僕の苗字を知っていた。だが僕は、彼女のことは何一つ知らない。

 僕は店員を呼んで水を頼んだ。冷たい水を喉に通し、これが夢ではないことを確認した。それから、つい先ほど自分の身に起こった出来事について落ち着いて考えてみた。しかし、うまく考えがまとまらない。女が話していたことを思い出そうとしても、雲を掴むかのようにそれらを言語化することができなくなっていた。現実世界にいながらも、夢から覚めたばかりのような気分だった。だがこれが夢ではないことは、テーブルに置かれた二組のコーヒーカップが克明に物語っている。

 喫茶店のドアが開き、二人組の女性客が店に入ると続々と客が入り、瞬く間に店は満席になった。店内は一気に賑わいを取り戻し、僕が知る普段の喫茶店の様子に戻っていた。

 左右対称の顔を持つ女と話したことについて、僕は再び考えた。やがて絶望に陥るということ。生まれた環境も、すべて自分の選択によって決められたものだということ。そして僕をこの世から連れ出すために迎えに来たということ。それらのことがぐるぐると頭の中を巡った。

 だがしばらく経つと、考える必要などないように思えてきた。自分のことを詳しく知っている存在がいても、何も不思議ではない。生まれてから今まで多くの人と出会ってきたし、どこかで自分の情報が漏れてしまった可能性もあるのだ。そんなことは現代ではよく聞く話だ。あの女もきっと、どこかで僕の個人情報を入手したのだろう。そう考えると、すべて納得がいく。

 おかしな点は、何も見当たらない。

 僕はそう自分に言い聞かせて、コップに残った水を一気に飲み干した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?