中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第3話 不在着信と差出人不明の手紙(1)

 マンションのエントランスは、厳重にロックされていた。

 僕は六桁の暗証番号を入力して、ドアのロックを解除する。開いた自動ドアから共有スペースに入り、念の為ポストの取り出し口を確認した。何も入っていない。今日は休日だから郵便物は来ないし、配達物が届く当ても特にないので当然のことではある。それから僕はちょうど停まっていたエレベーターに乗り、四階行きのボタンを押した。

 隣に建つ家賃二万円の安アパートからこのマンションに引っ越してきたのは、もう五年以上も前のことだった。都内の一等地に構えるマンションだけあって、セキュリティー面はしっかりしていた。大の男である僕がその恩恵を受けることはほとんどないが、厄介な訪問販売や勧誘を門前払いできるという点では助かっていた。見ず知らずの誰かが突然家に入り込んでくる心配もない。


 馴染みの1LDKの部屋に戻り、夕飯の準備をしているときにスマートフォンの着信音が鳴った。

 僕はキッチンで鯖の切り身を焼きながら、冷蔵庫に入っている野菜から適当に見繕って味噌汁を作ろうとしているところだった。そのまま僕は手を止めずに料理を続けた。着信は十二回ほど鳴って止まった。

 夕飯の準備を終え、リビングのガラステーブルに食事を運んでから、先ほどの不在着信を確認した。スマートフォンの画面には、知らない数字の羅列だけが表示されている。登録していない番号だ。このようなときは不動産投資か何かの勧誘の電話だった。僕はこのまま電話をやり過ごそうと思った。

 食事を始めようと箸と持ちかけた時、再び着信音が鳴り始めた。今度は二十回鳴っても鳴り止まなかった。まるで僕が今は電話に出られる状態にあることを知っているかのように、着信音は鳴り続ける。僕はあきらめて電話に出た。これから夕飯だという時に、できれば電話には出たくなかった。でも、もしかしたら何か緊急の用件なのかもしれない。

「もしもし、ヒナミ・ヒビキさんでいらっしゃいますか?」

 男の声だった。聞き覚えはなかった。

「はい。そうですが……」

「どうもはじめまして、私、『日本アウトベイディング』のトドリキと申します。トドロキではなくトドリキです。どうかお見知り置きを」、男は間違って欲しくない箇所を強調して言った。

 トドリキという男は、聞き取りやすい明るい声をしていた。電話越しでも彼の明るい表情を容易に想像することができた。どのような顔なのかはわからない。でもきっと褐色で健康的な好青年なのだろう。

「それで、どのようなご用件でしょうか?」

 僕はわざと声のトーンを落として言った。相手に心の中に付け入る隙を見せないためだ。

「そんなに警戒していただかなくて大丈夫ですよ。何かの勧誘や販売で電話を差し上げた訳ではありません。いえ、少しばかりお尋ねしたいことがあって電話を差し上げたのです」、僕とは対照的な明るい声で男は言った。

「尋ねたいこと、とは?」

「私は結論から先に言うタイプですので、率直にお聞きしますね。ヒナミさん、あなたは本日、『喫茶ロジェ』で誰かと会っていましたよね?」

 怪訝に思いながらも、僕は正直に答えることにした。

「ええ、確かに会っていました。でもそれが何か?」

 少しだけ間があってから、男は言った。「その方とどのような話をされたのか、差し支えなければ教えていただけませんか?」

 男の狙いが何なのか僕にはわからなかった。でも、そもそも僕とあの女は大した話をしていないし、誰かに聞かれて困るような内容でもない。面倒なことになったと思いながらも、僕はありのままを話すことにした。

「まず初めにお伝えしておきますと、僕はその人とは初対面です。僕の記憶にある限りでは、ですが」

 男は黙っていた。僕はそのまま話を続けた。

「その人は僕に会うや否や、『この世に十分満足したのではないですか?』と言ってきました」

「それで、ヒナミさんは何と返事したのですか?」

「そこそこ満足していると答えました」

「なるほど。それから?」、男の興奮している様子が電話越しでも伝わってきた。鼻息がマイクを吹き付ける音が実に不愉快だった。

「僕がそのように答えると、『満足しているのなら、このタイミングでこの世界から抜け出してはどうですか?』というようなことをその人は言ってきました」

 二、三秒ほど間があった。

「この世界から抜け出してはどうか……と。ふむ。それからどうしたのですか? ヒナミさんは、彼女の提案どおり、この世から抜け出すことにしたのですか?」

「いいえ、もちろん断りましたよ」

「なぜです?」

「なぜって、気持ち悪いじゃないですか。魂でも抜かれるんじゃないかと思いましたよ」

「そうですか。なるほど……。で、次に会う約束はされたのですか?」

「さあ。約束をしたと言って良いものかどうか、僕にはわかりません。僕はその人の連絡先を知らないですし、向こうもまた僕の連絡先を知らないはずです。だから、またどこかでばったりと会うでもしない限り、再び話すことはないでしょうね」

 男がため息をついたのが電話越しでもわかった。失望させたようだが、僕には関係のないことだった。それから何かを考えついたかのように、再び明るい声色で話し始めた。

「ただ、個人的にですが、私はヒナミさんに対して非常に興味が湧きました。機会があれば一度お会いして直接お話ししてみたいのですが……」

「失礼な事を言うようですが、僕はあなたに興味がありません」、やはり何かの勧誘なのだと思い、僕は男の話を遮って言った。「でも、どうしてもトドリキさんが僕に会いたいというならば、それなりの対価を払っていただければ、まぁ考えなくもないですけど」

 僕はしつこい勧誘を断るときにはいつもこのように相手と接した。威圧的な態度で対価を求めると、大抵の場合はこちらを厄介な相手と認定して引き下がってくれる。だが男の反応は僕の予想に反するものだった。

「わかりました。直接お会いしてさらに詳しいお話しを聞かせていただけたら、ちょっとした謝礼をお渡ししましょう。あなたの済むマンションの賃料三ヶ月分くらいの額は出せると思います。どうです。悪くない報酬でしょう?」

 確かに悪くなかった。だが、会って話をするだけで頂ける金額としてはあまりにも大きすぎる。男の言う通りなら、金額にして四十から五十万円くらいにはなるだろう。下手に高級ホステスで遊ぶよりも高い金額だ。

 この話には絶対に裏がある。こんなおいしい話があるわけがない。僕は目の前に吊り下げられた餌を目前にした魚にでもなったような気分になった。これは絶対に《餌》だ。でも、その餌自体よりも、そこまでして男が何を釣り上げようとしているのか、そっちの方が僕は気になっていた。

 大丈夫だ。例えば人通りの多い街の喫茶店とか、安全な場所で話をする分なら問題はないだろう。もし危険な所に連れて行かれそうになったら、周囲に助けを求めれば良いだけなのだ。僕は心を決め、話し始めようとしたその時——。

「どうやら決まりのようですね。それではまた近いうちにお話しましょう」とトドリキは突然言った。

「ちょっと待ってください。僕はまだ何も——」

 すでに電話は切れていた。僕はしばらくスマートフォンの画面に表示された番号を眺めた。それから今度はこちらからその番号にかけ直してみた。だが電話は繋がらなかった。まるで男の電話回線が一方通行かのように、何度かけ直しても「ツー、ツー」と虚しく音を発するだけだった。

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