中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第2話 樹海からの招待状(1)

 本日三本目の発泡酒を喉に通しながら、わたしはスマートフォンのSNSアプリを起動した。女性らしさのかけらも感じられない彩りの乏しい部屋の中、畳の上で横になりながら、自分がフォローしている人たちの投稿に目を通していた。

 わたしと同じように心の闇を吐き出す連中による、負の感情に満ち溢れた暗い文章によってスマートフォンの画面は覆われていた。その中でも、行き場のない怒りと悲しみの感情が吐露されている投稿に対して、「いいね!」ボタンを順に押していく。もちろん、決して字面どおりの「いいね!」などという不謹慎なことを考えているのではない。言うまでもなく共感と励ましの意を込めている。ボタン一つで気持ちを伝えられる手段が他にないのだから、仕方がないのである。

 SNSと一括りで言っても様々なものがある。インターネット上に実名を公開して実際の友人や職場の人間と繋がるものもあれば、実名を隠し、偽の名前を用いて不特定多数の人と繋がることができるもの、写真や動画の共有をメインとするものなど、それぞれ性質は少しずつ異なるのだ。

 実名を公開する類のSNSは、居酒屋やパーティー会場で仲間たちと盛り上がっている写真を掲載してプライベートが充実していることを自慢したり、恋人や子供と一緒に写った写真で幸せな暮らしぶりを見せびらかすために利用される印象があった。多少の偏見が含まれていることは自分でもわかっている。別にそのこと自体を否定するつもりはない。ただ、自分の顔を晒した写真を一日に何度も投稿するような人に対して、ある種の尊敬の念を抱きながらも、その暴発した承認欲求に一種の哀れみのようなものを感じるのだった。

 わたしにとってSNSとは、普段誰にも言えない心の闇の部分を吐き出すためのツールだった。他人の投稿を読むことよりも、自分の感情のはけ口として利用することを目的としていた。その目的の性質上、わたしは完全に匿名性のあるツールを使わなくてはならなかった。一度も会ったことのない(ときには性別すらもわからない)不特定多数の人間に対して心の内を暴露してしまうのは心地が良かった。仮に誰からもリアクションがなかったとしても、誰かが読んでくれている可能性のある場所で本音を吐露する行為自体に、背徳感に近い快感を覚えるのだった。

 そのようなこともあり、わたしは自分の心のダークサイドをSNSの匿名アカウントを使って暴露することを日課にしていた。毎日、これといった出来事がなくても、些細なことがきっかけで頭の中に浮かんだ負の感情を事細かく吐き出すのだった。特定の誰かに向けて発信するわけでもなく、誰かに共感してほしいわけでもなく、ただ単に「発散するためだけに」である。

 頭の中に棲む蜘蛛のような生き物が、まるで一生涯の仕事をこなすかのようにせっせと黒い糸の網を心に張り巡らせる。その糸を一心不乱に取り払うかのように、ただひたすら内面を吐き出していくのだ。そうすることによってわたしは自分の身の穢れを洗い流し、精神と肉体のバランスを保つことができる。岩盤浴に行って、汗とともに毒素を体外に放出しようとする試みと似たようなものだ。

 楽しいことや嬉しいことを吐き出すことはほとんどなかった。そのような感情になることは滅多にないからだ。だが、映画やドラマ、アニメの感想を書くときは別だ。フィクションは心を安らかにする数少ない楽しみの一つだった。わたしがSNSに投稿する内容の中で他人が読んで気分が暗くならないものがあるとすると、こういった類の投稿だけだろう。


 テレビを点けると、深夜のスポーツニュースをやっていた。それから、隣の部屋で寝ている両親に気付かれないように音量をできるだけ絞った。見つかるとまた小言を言われてしまうからだ。

 三十代になって働きもせず、嫁にも行かず、実家を出ようとしないわたしに対する家族の風当たりは冷たかった。食事をすれば「働かざるもの食うべからず」と言われ、何か意見しても「ただ飯を食べているお前には言う権利はない」とあしらわれた。実の娘なのに、同じ空間にいることすら受け入れてもらえなかった。

 そんなことはおかまいなしに、テレビからは呑気な笑い声が漏れてくる。数ヶ月後に控えているオリンピックに関する話題で盛り上がっているようだった。前回のオリンピックではどの国がいくつ金メダルを取ったかという話題から、今回日本が獲得するメダルの数を予想するコーナーに発展していた。

「メダルの数なんてどうでもいいし」と独り言をつぶやきながら、意識を再びスマートフォンの画面に向けた。テレビを点けた目的は、オリンピック前の熱狂に興じたかったからではなく、このスポーツニュースの後に放送する深夜アニメを見たいからだ。最初の方を見逃すことのないように、時間に余裕を持ってテレビの電源を入れただけに過ぎない。

 このようなときだけ、自分を律して行動することができた。寝る準備を済ませ、アニメが始まる十分前にはテレビの前で待機することができた。自分の好きなことに対しては少しだけ頑張ることができる。それでもお酒の量は抑えられなかった。わたしはそんな自分がとても滑稽に思えた。アルコールが入っているせいで、自虐的な性格に余計に拍車がかかっているのかもしれない。

 アニメが終わるまでの時間は、本当にあっという間だった。だけどわたしは、その余韻に浸りながらも、どこか虚しさを感じていた。楽しいことがあれば、それは生きる理由にはなり得る。だがそれはあくまで生きながらえる手段なのであり、生きる目的とは言えない。好きなものを観ている時は確かに楽しい。だが、言ってしまえば死ぬまでの時間潰しでしかないのだ。いわば現実逃避である。そこで感じた喜怒哀楽の感情は、現実には何一つ反映されない。だったら自分の現実に繋がる何かを見つければ良いじゃないか、と普通の人は思うだろう。だがわたしはそれ以上に、死ぬまでの時間に苦しいことや辛いことをやるのはもう嫌だった。何かを得るための努力が苦しいなら、その何かは必要なかった。

 すっかりアルコールが回り切った頭で、先ほどのアニメに登場していた女性キャラクターについて考えていた。「どうやったらあんなに可愛くなるのだろうか?」と。

 きっと生まれた時点ですでに決められているのだ。もしわたしもあんなに可愛く生まれてきていたとしたら、もう少しまともな人生を送れていたのだろうか? 学園アニメでありがちな、思わせぶりな言動でクラスメイトの男子の心を弄ぶ学校のヒロイン的な存在になれていたのだろうか? 次々と膨らむ妄想は、否応なく過去を嫌な思い出を想起させた。胸の中に重い霧が渦巻いていく。

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