砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(4)

 水槽を眺めながら、僕は考えた。等々力の手によって脳を取り出され、この液体の中に入れられた僕は、まだこの中で永遠に宇宙の創造と破壊を繰り返しているのだろうか。それとも、水槽の中にある僕の脳はもはや物質的な意味を持たなくなっていて、精神だけが分離してこの肉体の中に在る状態なのだろうか。だとしたら、今僕が持っているこの肉体はどこから来たのだろう? この肉体までも僕自身が創造したものだとすれば、もしかすると僕の精神は永遠に不滅なのかもしれない。肉体は、精神の入れ物として代用可能な消耗品のひとつなのかもしれない。だとすると、これ以上、僕が生きることに意味はあるのだろうか。死の概念を失った人生は、もはや人生とは呼べないのではないだろうか。

 そう思う一方で、別の考えも頭をよぎる。生きることの意味なんて考えても無駄なのかもしれない。不滅の精神と代用可能な肉体を手に入れたのなら、それに見合った意味のある死に方を自分で見つければいいだけなのかもしれない。

 名前は知らないが、どこか懐かしい感じのする彼女の冷たい手を、僕は強く握った。大丈夫。僕はひとりではない。彼女を危険にはさらしたくないけれど、それでもやっぱり、一緒に来てくれることは心強かった。もし叶うのであれば、元の宇宙に戻った後も、こうやって——。

 部屋の中央にある円盤の上に乗ると、円盤はゆっくりと宙に浮き、僕たちを上層へと運んでいった。黄金色の輝きは水槽の外まであふれ出ていて、僕たちを歓迎しているようだった。

「今、何か言った?」と彼女は言った。

「いや、何も……」と僕が返した瞬間、確かに誰かの話し声が聞こえるような気がした。ひそひそと内緒話をするかのように、誰かが耳元でささやいている。ひとりではない、ふたり、それも男女の声だ。

〈……やっと……会えた。ずっと……探してた〉

〈私も……ずっとあなたを探していました〉

 まるで水中にいるかのように、くぐもった声だけが脳内に直接響きわたる。

 彼女も不思議そうな顔をして、あたりをきょろきょろと見回していた。

 誰の声なのだろう? どこかで聞いたことがあるような……。

 そう思った瞬間、水槽はより一層、輝きを増した。あまりのまぶしさに、目の前が真っ白になった。

「あの人たちの声だ」と彼女は言った。「わたしとあなたを巡り合わせた、あのふたりの声……」

 ふたり? そうか、この声は《ローブの男》と《左右対称の顔の女》の声だ。かつて《原点O》で夫婦だったふたりは、同じ水槽の中に入れられていた。そして、ついに出会ったのだ。この水槽の中で、互いの存在を感じ取っているのだ。

 周囲の音が再び聞こえ始めてくると、ふたりの声はもう聞こえなくなっていた。気がつくと、黄金色の水槽の輝きは元通りに落ち着いている。

 彼女を見ると、一筋の涙を頬に流していた。彼女も感じ取ったのかもしれない。長い間、暗闇の中で隔てられてきた一対の夫婦が、ついに再会を果たしたことを。

 僕は彼女の手を強く握りしめると、彼女もまた強く握り返してきた。

 エレベーターは等速で昇り続けていく。天を突き抜けるほどの高い塔がどれほどの高さなのかはわからないが、徐々に空気が薄くなってきていることから、相当の高さまで上昇していることが推測できた。初めてここに来たときと比べて、冷静に周囲を観察することができていた。今なら理解できる。等々力がこのようになってしまった理由も、それが正しくない理由も。だからきっと僕はここに来たのだ。


 最上階に付くと、前に訪れたときと同じように、部屋の中は薄暗く、部屋の中がどうなっているのか確認できなかった。不気味な静寂があたりを包み込む。

 繋いでいた彼女の手を離して、足元から漏れる下層の光を頼りに、僕は独りでエレベーターを降りた。彼女は少し遅れて後ろから付いてくる。

「危ないと思ったら、エレベーターに乗って急いで逃げて」

「わたしは絶対に逃げない。危ないと思ったら、あなたを連れて一緒に脱出する」

 そう言って彼女は僕の肩に軽く手を触れた。《左右対称の顔の女》と異なり、左右非対称の顔を持つ彼女――といっても通常の人間の顔は左右非対称であることが普通なのであるが――は、出会ったそのときから僕の心の警戒を無意識に解いていた。出会って一時間ほどしか経っていないにも関わらず、長い間ずっと一緒に過ごしてきたような感覚だった。僕は「ありがとう」と彼女に言うと、部屋の奥に向かって進んでいった。

 コツン……コツン……と勿体ぶるように、革靴が床をたたく音が近づいてきた。それから、薄暗い部屋の奥に長躯のシルエットが浮き上がり、白いワイシャツに黒いベストを身に付けた男が姿を現した。

「やはりあなたでしたか、日並さん」、声と共に香水のきつい匂いが冷たい空気に乗って流れてくる。等々力は相変わらずティアドロップのサングラスをかけたままだったが、その視線は僕の後ろにいる彼女に注がれていることはなんとなくわかった。等々力は考え込むように首をかしげ、それからゆっくりと話し始めた。「日並さんの後ろにいるのはどなたでしょう? ……ふむ、私の優れた記憶力でも頭の片隅にも残っていないということは、おそらくお目にかかるのはこれが初めてだということでしょうか。しかしそんなことが果たしてあり得るのでしょうか。まさか、日並さん以外にこちら側に来られる者がいるとは……」

 初めて僕と対面したときに見せた余裕の表情とは異なり、等々力は意表を突かれているようだった。奴にとって、彼女が《原点O》に来ることは想定外だったのだろう。

 これはもしかすると僕たちにとって有利な展開になったのかもしれない……と思っていると、等々力はこみ上げる笑いを押し殺すかのような不適な笑みを浮かべていた。

「これはこれは、思わぬ誤算とはこういうときに使うべき言葉なのでしょうねぇ。宇宙と宇宙を隔てる次元の壁を越えられる力を持つ人間が、私の目の前に二人同時に現れるとは……」

 言うや否や、等々力は目にも止まらぬ速さで接近し、鋭峰のように尖った革靴で僕のみぞおちを蹴り上げていた。

 突然の強い衝撃で、僕の体は後方に吹き飛ばされていた。円盤形のエレベーターを軽く飛び越え、さらにその後ろにある壁に背中が強く叩きつけられる。

 息ができない。

 まるで脳が呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。息を吸う感覚が思い出せなかった。今まで体が勝手にやってきてくれたことなのだから、覚えてなくて当然なのかもしれない。ならば意識的にやってみてはどうか。横隔膜を上げ、肺へと空気を取り込む。

 わからない。一体、どうすれば呼吸を取り戻せるのか、見当もつかない。

 全身は痺れる感覚に包まれ、やがて痛みすらも感じなくなった。視界もだいぶ狭まってきている。脳と神経が肉体から切り離されてしまったかのように、動きたくても指一本動かすことができない。

 等々力はそのまま僕と共に来ていた女性を羽交い締めにすると、このときを待ち構えていたかのように、暗い部屋の奥から二匹のアリ人間が姿を現した。二匹は感情の読めない複眼を僕の方に向け、大人の腕ほどもある巨大な触覚をゆらゆらと揺らしている。

「そういえば日並さんは、人間たちがどのようにしてゼアーズへと進化するのか、今まで一度もご覧になったことはないですよねぇ」

 粘ついた声を等々力が発すると同時に、薄暗い空間は一瞬のうちにまばゆい光で満たされた。天井と床、そのものが照明の機能を兼ね備えているかのように白く発光している。

「日並さんさえよろしければ、お披露目いたしましょうか。この女の肉体を使って」

 等々力はモルモットを扱うかの如く、彼女の体を軽々と持ち上げた。それから部屋の中央にある手術台の上に横たえると、台に備え付けられた拘束具で、彼女の手足と胴体をくくりつけていた。

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