砂丘の満月

インサイド・アウト 第16話 おとぎの国(5)

 それは間違いなく、今まさに頭部だけの姿でベッドに横になっている《左右対称の顔の女》の声だった。

 彼女はわたしの心に直接語りかけていた。

〈あなたは、生きてください。私はあなたに生きていてもらいたいのです。そして、できることなら〝彼〟を助けてほしい〉

「……彼?」

〈そうです。私がこちら側の宇宙で見つけ出した〝あの人〟を助けてほしいのです〉

 〝あの人〟という言葉を聞いた時、わたしは真っ先にSの姿を想像し、それからうぐいす色のローブを身に付けた男のことを考えた。だけど二人とも、わたしがここに来る前に会った人物であり、彼女の言う〝あの人〟とは一度も会ったことがない。

 透き通るような声が、頭の中で反響する。

〈どういうわけか知りませんが、あなたは〝あの人〟の住むマンションで目を覚ましました。もしかすると、あなたはもとの宇宙で彼と会っているのではないですか?〉

 これまでの事の顛末を思い出しながら、わたしは口を開いた。「ローブの男……。その人がわたしをこちら側に連れてきたのだと思います。なぜなら、夢の中でその人は言ったんです。自分の力が及ぶ場所に連れて来るためにSという人物を利用した、と——。そして実際にSと会った翌日に、あのマンションでわたしは目を覚ましました」

 話しながら、わたしは気がついた。まるで《左右対称の顔の女》が、彼女の分身であるわたしに幻覚を見せたのと同じように、ローブの男もまたSを利用したのかもしれないと。しかしなぜ、他の人ではなく、Sでなくてはならなかったのだろうか?

〈そのローブの男の人は、どのような方だったのですか?〉と女は意識に語りかけてきた。

 夢の中で見た男の姿を思い描きながら、わたしは答えた。

「男は、まるで浮浪者のようでした。継ぎはぎだらけの布をローブのようにまとい、フードで顔を隠していました。はっきり確認することはできませんでしたが、頬は痩け、やせ細っていました。それでも、彼の黒い瞳からは、何か強い意志みたいなものを感じたような気がします」

 そしてその人は、自分のことをSであると同時にSではないと言っていた。あれは一体何を意味していたのだろうか?

 まさか、ローブの男とSは……。

 わたしが気がつくと同時に、女は再びわたしに語りかけてきた。

〈あなたの夢の中に現れたローブを着た男の人こそ、この宇宙を創造した人物、その人です。そして、私がずっと愛し続けた人でもあります。彼はきっと、私の存在に気がついたのでしょう。私がそうしたのと同じように、彼もまた、私が創り出した宇宙に入り込み、彼の分身となるSという人物を産み出したのです。そしてあなたとSを接触させ、Sを媒体として、あなたをこちら側の宇宙へと連れてきた。でも、彼はどうしてそんなことをしたのでしょうか……〉

 女は力無い瞳でわたしを見つめた。顔色は先ほどよりも悪くなっていた。目のくまは薄墨を塗ったように黒みを増し、目の焦点はますます合わなくなっている。わたしの姿が見えているかどうかも怪しかった。

 わたしは言った。「夢の中で、わたしはローブの男に三回会いました。その度に彼はわたしに、手鏡を使って、首だけになったわたしの姿を見せてきたんです。もしかするとあの人は、こうなることをわたしに知らせてくれたのかもしれません」

 本当のところはわからない。でも、そう考えるとすべての辻褄が合うように思えた。ローブの男は、自分の妻がこのような酷い姿になっていることをわたしに知らせたのだ。そして、彼の分身であるSをわたしに近づけることで、力の媒体としてSを利用し、わたしをこちら側の宇宙へと転送したのだ。

 でも、だからと言ってわたしにはどうすることもできない。無力なわたしをこちら側の宇宙に連れてきて、彼は一体何がしたかったのだろう? 頭部だけの状態になった彼女を救えるような力を、当然のことだが、わたしは持ち合わせていないのだ。

 《左右対称の顔の女》は、焦点の合っていない目で宙を見つめていた。わたしの意識に語りかけてくることもなく、静かに時間だけが過ぎていった。彼女は、頭部だけの姿で、何かを必死に考えているかのようだった。

 そのときだった。女は瞳だけを動かして、ベッドの脇に吊り下がっている点滴を睨みつけた。それから血液の循環装置に視線を移し、そして、訴えるような目でわたしを見た。

〈最後のお願いがあります。聞いていただけますね?〉

 一瞬だけ考えて、わたしは静かに頷いた。それを見て、女は弱々しく笑った。力無く笑う姿は、亡くなった祖母が、死ぬ間際にわたしを見て微笑みかけたときの様子にとてもよく似ていた。

 嫌な予感がした。この類の笑顔を見た後は、良いことは決して起こらない気がした。そして、その直感は、当たっていた。

〈この点滴の針を、私から抜いてもらえませんか?〉

 女の目には、強く訴えかけるものがあった。苦痛に歪む顔から、最後の力を振り絞っているのが見て取れる。

「でも、これを止めてしまったら……」

 予想もしていなかった女の訴えに当惑し、返す言葉に困った。やっとのことで発した言葉も虚しく空を切り、彼女の瞳は変わらぬ決意の光を帯びている。

〈どのみち、私の命は長くありません。点滴で栄養を補給し、血液循環装置で脳に酸素を供給しているとはいえ、この調子だと、あと数分もすれば昏睡状態に陥り、やがて死を迎えるのは間違いないでしょう〉

 女の言っていることはわかる。でも、だからといって自分で死を選ぶことはないだろう。そう反論したかった。しかし、そのようなことを言える権利がないことをわたしは知っていた。かつて自ら命を絶とうとしたことのある人間が、他人の生死に対して意見することなどできないのだ。

 そのとき、彼女は再び微笑んだ。わたしが罪悪感を抱かないように気遣ってくれているのかもしれない。

〈私はもう、十分、生きました。永遠の命を与えられ、人類が宇宙の果てまで到達するほどの年月を生き続けました。それからも、自らの脳の中に宇宙を創造し、幾つもの宇宙が誕生し、滅んでいく様子を見守り続けてきました。だからもう十分なのです。死ぬことだって、もはや、怖くはありません——〉

「……ダメ。もうそれ以上は、言わないで」、わたしは詰まる声を絞り出した。

〈あなたならきっと理解していただけると思っています。私はもう、これ以上生きるのは嫌なのです。苦しいのです。それにどちらにせよ、もうそんなに長くはないのです。どうせ死ぬなら、そのタイミングくらい、自分で選択してもよいのではありませんか?〉

 女の話を聞きながら、残酷な決断を下す方向に意志が倒れつつあった。そう考えている自分を、自分でも驚くほど冷静に分析していた。

 これからわたしは、人を殺そうとしている。その相手は、自ら死を望んでいるし、あと数分後には死ぬ運命にある。

 しかし、だからと言って、この手で彼女の死の引き金を引くのは、人の命を冒涜しているようで、超えてはならない一線のように思えた。

 だけど、本当にそうなのだろうか? 頭部だけの姿で苦しみながら死んでいくのを見届けるのと、相手の望むタイミングで死を迎えられるよう手を貸すのと、果たしてどちらが人の命を冒涜していると言えるのだろう。

 わたしもかつて、誰かに殺して欲しいと思っていたことがある。地獄と砂漠しかないこの世界から脱出するためには、死ぬことが一番の近道だと考えていたし、今でもそう考えている。でも、自分では決断できないし、もし決断できたとしても致命傷を負うことは簡単ではないことも知っている。だからわたしは、自分の命を絶ってくれる人を探していた。不謹慎にも、世を怯えさせた凶悪な殺人犯に対して、自分の命を差し出したいとさえ思ったことがあった。生きることを望まれていた誰かの代わりに、誰からも必要とされない自分の命を代わりに差し出したいと本気で考えていた。

 それと同じようなことを、《左右対称の顔の女》は願っている。今この時も、懇願するような目でわたしを見つめ続けている。

 一体、どうするのが正解なのだろう? 誰か、教えてはくれないだろうか。わたしはどうすればいいのか。言われた通りに実行すべきか。それとも彼女の願いを無視して、わずか数分の延命を優先すべきか。

 時間としては一瞬だったかもしれない。しかし、わたしが考えている間にも、女の頬はみるみる白くなっていった。

 わたしは彼女に近づき、その頭部をそっと抱きしめた。見た目以上に、頬は冷たくなっていた。抱擁を解き、わたしは再び彼女を見た。

 答えは、最初から、決まっていた。

 わたしは、彼女の頸部に刺さっている点滴の針をゆっくり抜いた。針が刺さっていた箇所からは、思ったよりも出血はない。

 彼女は微笑んでいた。そして、女の頬にひとすじの光が流れた。時空を超え、宇宙を超えたその先で、最愛の人と再会することもなく、女は今にも息を引きとろうとしていた。その無念の気持ちが最期に涙となって表れたのか、それとも、長い人生に終止符を打つことができることへの喜びなのか、わたしにはわからなかった。

 そのときわたしは、ふと思った。

 《左右対称の顔の女》が死ぬということは、彼女が創り出した宇宙もまた、この世界から失われてしまうのではないだろうか、と……。だとすると、両親も、唯一の親友である友美も、Sも、本人たちの知らぬ間に、泡のように消えてなくなってしまうのかもしれない。

 もしこれが本当なら、悲しい出来事のはずだ。なのに、怒りも後悔も、何も感じない。

 なぜなのだろう、とわたしは思った。

 だが、すぐに理由がわかった。これと似たような感覚を、以前にも経験したからだ。

 幼い頃に絵本で読んだ物語。そのどれもが、ただの架空の話だと知ったときの気持ちにとてもよく似ていた。

 わたしたちは今までずっと、《左右対称の顔の女》が創り出した世界の中に生きていたにすぎないのだ。現実の世界ではない、事実と虚構の間の、どっちつかずの世界で暮らしてきたわたしたちは、空想上の世界の住人と何も変わりないのである。

 女の顔を見た。生気は感じられないが、安らかな表情で静かに眠っている。

 まもなく彼女の命の炎は尽きるだろう。その引き金をわたしが引いたのは紛れもない事実である。だがわたしは間違ったことはしていない。誰から何を言われ、後ろ指を指されようと、わたしは自分なりに考え、自分なりの答えを導いて選択したのだ。この決断は責める権利は誰にもない。

 彼女にとって最善の選択ができたのかどうかはわからない。この先ずっとわかる日は来ないだろう。でも、自分もまた地獄を生き、頭部だけの姿で絶望を味わったことで、彼女の決意を正しく汲み取ることができたと信じている。

 女の顔を見ながら、わたしは考えた。

 わたしがこちら側の宇宙に来た意味は、未だにわからない。《うぐいす色のローブの男》が道を示し、《左右対称の顔の女》がわたしを導いた……。その意味はどこにあるのか。

 もしかすると、そこに意味などないのかもしれない。あるのは、今わたしが、こちら側の宇宙にいるという事実のみ。だとしたら、そこに意味を見出すのはその二人ではなく、このわたし自身なのかもしれない。

 女の髪をそっと撫でた。それから、その美しい左右対称の顔を目に焼き付けた。点滴が刺さっていた所は、すでに出血が止まっていた。脳波計は、相変わらずの聴きなれない電子音を病室内に響かせている。

 わたしは女に背を向け、病室の扉へと向かった。

 カーテンと窓枠の間から入る光は、先ほどよりも強さを増し、扉に向かって一本の明るいラインを伸ばしていた。


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