中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第12話 夢の終わりに(3)

 くぐもった電車の走行音で、わたしは目覚めた。がたんごとん……という現実以上に現実的な音が、これが夢ではなく現実世界であることを告げている。

 目を開けると、陽光が網膜を強く刺激した。まるで冬眠から覚めたばかりの動物のように、まぶたを開き続けられるようになるのにはしばらく時間を要した。

 ——AM8:55 5/7(Thu)

 わたしのすぐ横で、小型のLED時計が瞬きのようにコロンを点滅させている。

 確か、樹海に行ったのは五月六日。その日、わたしはSと共に樹海近くのホテルに泊まった。もうすぐ午前九時。随分熟睡したようだ。途中で目覚めることもなく、これほど長い間眠ることができたのは久しぶりだった。

 夢の中ではとてつもなく長い時間を過ごしていた気がした。それでも、途中で一度も目覚めずに長い時間眠り続けることは、今までに一度もなかった。どんなに疲れが溜まっている時でも、睡眠薬を過剰摂取したときでも、これほど長く眠り続けることはなかった。

 もう一度LED時計を見たとき、ふと、ある疑問が頭に浮かんだ。

 ホテルにこのような時計は置いてあっただろうか?

 それから隣に寝ているはずのSの姿を探した。しかし、どこにも見当たらない。それどころか、今わたしが横たわっているベッドは、Sと共に寝ていたベッドとは全く異なっていた。大きさはクイーンサイズではなくセミダブルに変わっているし、羽毛の布団は、毛布一枚だけの簡単なものになっていた。

 夢の余韻に浸る暇もなく、わたしは今、自分がいる空間に違和感を覚えずにはいられなかった。

 LED時計とベッドだけではない。天井。部屋の壁紙。窓の位置。細かく手入れがされ、異臭のしない部屋。そのどれをとっても、昨晩泊まったはずのラブホテルと何一つ同じものはなかった。わたしがいるのは、〝ごく一般的な一人用の寝室〟だった。

 ベッドから起き出して、寝室のドアを開けると、広いリビングにつながっていた。キッチンも一体化されたその部屋の家具の配置はスタイリッシュにまとまっていて、必要な家具を無理矢理押し込んだようなラブホテルの一室とは似ても似つかなかった。

 リビングのソファーの前にはガラスのローテーブルがあり、その上には文庫本と茶色いキーケースが置かれていた。その横には親切に朝食が用意されている。目玉焼きとサラダ、それから食パンと紅茶の組み合わせは、理想的な朝食の献立の一つだった。

 そのとき、まるで腹の中に別の生き物がいるのではないかと疑うほど、大きく腹が鳴った。そして、誰が用意したのかもわからない朝食を、わたしは貪るように食べた。本当に二日間以上眠り続けていたかのように、体は食料を激しく欲していた。

 食事を終えて洗い物をしていると、ごく当然の疑問が頭に浮かんできた。


 ここは、一体、どこなのだろうか?


 昨晩、一緒にホテルに泊まったはずのSの姿はどこにも見当たらない。

 彼はどこに行ったのだろう? それとも、彼を置いて出てきてしまったのは、むしろ「わたしの方」なのだろうか? 考えれば考えるほど、ますますわけがわからなくなっていく。

 夢の最後のシーンで、首だけの姿になった自分を見たことを思い出し、わたしは急いで洗面所に向かった。ミラーで自分の姿を確認する。そこに映っていたのは、自分だった。いつも通りの自分。おかしな点は何も見当たらない。特別可愛くもない顔は、胴体としっかり接続されている。着ている服も、樹海に身に付けていったものと同じだった。

 これも実は夢なのだろうか、とわたしは思った。もしかしたらわたしは、夢から覚めたあともまだ夢を見続けているのかもしれない。しかし、それにしては意識は明瞭すぎるし、五感もはっきりしている。何よりもこれは夢ではないという強い感覚があった。

 リビングに戻り、ソファーに腰掛けた。

 このまま待っていたらそのうちSが来るかもしれない。そう考え、時が過ぎるのを待った。五分、十分。それから感覚的に三十分ほどが経過したとき、わたしは確信した。

 Sはここに来ない。
 それどころか、もう二度と彼に会うことはないだろう。

 ガラステーブルに置かれた文庫本を手に取ると、その下から見覚えのあるスマートフォンが現れた。それはSが持っていたものだった。画面をタップしたが、反応はない。どうやら電源は入っていないようだ。それから、横に置いてあるキーケースを手に取り、中を開いた。一枚のカードキーと、三つ折りにされた一万円札三枚がきれいに差し込まれていた。

 Sが置いていったキーケースを握りしめ、わたしは立ち上がった。それから玄関に揃えられている自分のスニーカーを履き、外に出た。

 扉を閉めると、「カチリ」とオートロックの掛かる音が通路に響き渡った。

 四〇四号室。

 そのように記されたプレートが、扉の外側に埋め込まれていた。通路からは、周辺の閑静な住宅街を一望することができた。遠くには高層マンションや繁華街のビルも見える。それほど遠くない場所から、電車の走る音も聞こえた。ここは青木ヶ原樹海の付近ではなく、だいぶ栄えた都会の住宅街であることは間違いなかった。

 階段で一階まで降り、マンションのエントランスを出た。そのまま、電車の音のする方角へと吸い込まれていく。

 一軒家の並ぶ住宅街を歩いていくと、電車の音は次第に大きくなっていった。駅前の通りに出ると、テレビで見たことのあるような都会の風景が目の前に広がった。泥と藻が混ざった汚れた河の上に架かる橋の上を、アスファルトのような灰色のスーツを着た人たちが、まるで巣に餌を運ぶ働きアリたちのように激しく往来している。

 その人たちの流れに乗って歩いた。そのまま人混みに流され、車一台がやっと通れるほどの狭い路地に押し込まれると、わたしは古びた喫茶店の前に立っていた。路地は静かだった。わたし一人だけが、世界に取り残されているかのようだった。

 その喫茶店の入り口には、店の名前が書かれた看板が置かれていた。扉の隙間からコーヒーの美味しそうな香りが漂ってくる。その匂いを鼻から深く吸い込み、わたしは喫茶『ロジェ』の入り口のドアを開いた。

 ベルの音とともに、ジャズの情熱的なピアノの旋律がわたしを包み込む。

 客は一人もいない。

 席は綺麗に手入れがされていて、椅子は綺麗に揃えられていた。わたしはカウンター席の一番奥を選んで座った。

「いらっしゃいませ」、ブルーのデニムシャツを着た店員がやってきて、メニューを開いて置いた。「ご注文はお決まりでしょうか?」

「ブレンドコーヒーをください」

 メニューを見ずに注文すると、バリスタは少し気まずそうにメニューを下げた。それから電動式のコーヒーミルに豆を入れ、目を合わせずにわたしに向かって言った。

「今日はどこかへお出かけですか?」

「出かけるどころか、これからどうすべきか途方に暮れていたところです」

 思い切って答えたが、コーヒーミルが豆を挽く音で、わたしの声は完全にかき消されてしまっているようだった。店員はこちらを気にする様子もなく、黙々と作業としている。

 豆を挽き終えた店員は、あらかじめ湿らせておいたと思われるフィルターに挽いた粉を入れ、少しずつお湯を注ぎ始めた。目の前のコーヒーを作り上げることに全神経を集中しているらしい。

 フィルターから滴る黒い水滴がコーヒーカップを満たしていく。その様子をただじっと観察しながら、わたしは自分が置かれた境遇を時間が勝手に解決してくれるのを待った。

 コーヒーの滴る雫は、砂時計の砂のように時間を穏やかに進めた。天井のスピーカーから流れるジャズは、情熱的なピアノの旋律がひと段落つき、ウッドベースのソロパートへと移る。黒い雫が滴り終わったとき、誰かが店のドアを開く音が聞こえた。

 それから少し遅れて入り口のベルが鳴り、乾いた靴の音が近づいてくる。足音の具合から、どうやら一人客のようだ。気づかないふりをしながらも、どこに座るのだろうかと聞き耳を立てていると、その人はよりによってわたしが座っているカウンター席の隣を選んだ。椅子を引き、静かに腰掛ける。それからこちらを向いて、大きく息を吸い込んだ。

「もうこの世に充分満足されたのではないですか?」

 女の声だった。濁りがなく、それでいて、よく響く透き通った声。

 しかし、その言葉の意味を考える間も、女の顔を確かめる間もなく、わたしは意識を失った。

 遠ざかる意識の中、かすかに聞こえたウッドベースのソロは突如止まり、そこで唐突に曲は終わった。重低音の効いたサウンドが余韻となって、意識の奥底でしばらく鳴り続けていた。



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