インサイド・アウト 第7話 砂漠の無人駅(1)
その日、僕は《砂漠の夢》を見た。
黒ベストの男と会った日の夜、眠れたのは結局、太陽が昇り始める頃だった。夢を見るのは久し振りだった。夢の中で、僕は四歳の男の子になっていた。
炎天下の砂漠の中、ぽつんとたたずむ小さな無人駅があった。
建てられてから長い年月が経っているのか、コンクリートの床は風化して、指先が入るほどの小さな穴がぽつぽつと所々に空いていた。窓ガラスは砂ぼこりが焦げ付いたかのように黄ばんでいる。
本当のことを言えばここが駅かどうかは定かではない。それでも、砂漠地帯には不釣り合いの三角屋根、それから寂れた駅の待合室のように埃っぽい室内は、無人駅と言い表すのが最も適しているように思えた。
その屋根の下、正方形の部屋の一辺に備え付けられた木製のベンチに、父と僕は腰掛けていた。親子なのに、まるで赤の他人のように一言も交わさなかった。
何のためにここにいるのかは知らない。そもそも疑問にも思わない。小さな子供にとって、行き先も知らされずに親に連れられて出かけることはそう珍しいことではないからだ。
ふと気がつくと、普段はタバコを嗜まない父がタバコを吸っていた。わずかに違和感を覚えたが、深く考えないことにした。父といえども、知らない一面があっても何も不思議ではないのだと、子供ながらにすでに察していた。それに父と僕は、記憶している限りでは、一緒に過ごした時間はそれほど長くはない。
父は吸い終わったタバコの殻を、朽ち果てたコンクリートの床にぽいと投げた。そして火を踏み消そうと足を伸ばしたそのとき、ちょうど爪先のあたりに空いていた小さな穴ぼこの中に、父の大きな体が一瞬で吸い込まれていった。まるでアラビアンナイトの魔人がランプの中へと逆戻りするかのように。
僕は慌てて父が吸い込まれた穴の中を覗いた。米粒ほどにまで小さくなった父が蜘蛛の巣のようなものに引っかかり、助けを求めるかのようにこちらを見て喚き叫んでいた。体躯も存在感も実際以上に大きく見えていた父は、今では指先ほどの小さな穴の中にこぢんまりと収納されている。
まるで顕微鏡でも使って見ているかのように、その姿も表情も、口の動かし方も、はっきりと鮮明に僕の網膜に映り込んだ。父は必死の形相で口をぱくぱくと開いたり閉じたりしている。だが、僕の耳がその本来の機能を失ったのではないかと疑うほど、父の声は全くこちら側に届かなかった。でも、これまでの状況と父の必死な表情を考えれば、助けを求めていることは火を見るより明らかだった。
どのようにして助けるか考える間もなく、どこからともなく知らない男がやってきた。うぐいす色の薄汚いローブを身に付けたその男は、僕の隣にしゃがみこんだかと思うと、その骸骨のような干からびた顔を穴に近づけ、中を覗き混んだ。そして胸元からボールペンのような棒状のものを取り出したかと思うと、その穴に突き刺し、ぐるぐるとほじくり返す。それからまるで耳垢でも取るかのように息を吹きかけたかと思うと、首を傾げ、何やら独りで呟いていた。
「そんなことをしたらお父さんが死んじゃう」と喉の外まで出かかったが、他に為す術もなく頼れる人もいなかったので、声には出さなかった。この人はきっと父を助けようとしてくれているのだ。
しかし程なくして、ローブの男はその手を下ろした。その痩けた顔には明らかにあきらめの色が浮かんでいた。父を助けることを断念したのだ。
もうダメかもしれない。でも、ひょっとしたら――。
かすかな期待を胸に、再びその穴の中を覗いてみた。
その中は白い繭にも見える霧のようなもので覆われ、父の姿はもうどこにも見当たらなくなっていた。僕は思った。「きっと蜘蛛に食べられてしまったのだ」と。
落胆する暇もなく、周囲が異様な雰囲気に包まれていることに気が付いた。
立ち上がって窓の外を見ると、無人駅の外は、無数の黒い生き物でいっぱいだった。数百、いや千匹以上はいるだろう。黄ばんだガラス越しでもはっきりと確認することができた。
その大きさと姿は人間そっくりだった。二本の足で地面に立っている。だがそれが人間でないことは一目でわかった。その頭部には、黒光りした頑丈そうな大顎、獲物の匂いを感知するために発達したと思われる大きな触覚、それから二足歩行生物には明らかに不釣り合いな、小さな目の集合体である複眼――まさにアリの頭部が、そこには付いていたからだ。
かすかに耳鳴りがした。それからその音はぐんぐんと大きくなり、頭の中で強く反響する。いつの間にか僕の意識は、その光景を上空から眺めていた。広い砂漠を黒く覆っている不気味な生き物の集団と、それらに取り囲まれたちっぽけな砂漠の無人駅を——。
夢にうなされる自分の声で、僕は目を覚ました。
ベッドから体を起こし、しばらく呆然とする。これが夢だということを理解するのに、いつもより時間がかかっていた。全身から吹き出した汗で、シャツと下着がべったりと肌に張り付いている。だけど、そんなことは大して気にならなかった。
砂漠の夢。これは以前にも一度だけ見たことがあった。それは四歳のとき、出稼ぎでほとんど家を留守にしていた父が、珍しく夢の中に登場した。だからこれは今でもよく覚えている。
夢の始まりから終わりまで、何から何まで全く一緒だった。それにしても、三十二歳にもなって、どうしてまた四歳の頃と全く同じ夢を見たのだろうか。
「日並さん、大変です」
職場に着くや否や、新卒二年目の後輩は、僕に向かって助けを求めるように言った。椅子に座っているにも関わらず、全力疾走した直後のように息を切らしている。その只事ではない様子に、不吉な予感を覚えずにはいられなかった。
「何かあったの?」と僕は訊いた。
「松本さんから、さっきすごい剣幕で電話が掛かってきて……」
「何の用件で?」
「すみません。早口で何を言ってるかわからなかったのですが、あまりにも怒っているようだったので聞き返すこともできなくて……」
後輩は、用件をちゃんと聞き出さなかったことに対して罪悪感を抱いているのか、申し訳なさそうに肩を落として言った。
松本さんというのは、僕がリーダーを務める業務の取引先の人だ。それまでやりとりしていた取引先の窓口の人が鬱で会社を辞め、代わりとしてその人の上司である松本さんが直々に僕とやりとりをするようになった。それはつい先週のことだった。
「何か言ってなかった? せめて何に関する事なのか手掛かりがあれば、電話を折り返す前に準備ができるんだけど」
「テスト項目書がどうのこうのって言ってました。あ、そういえば、『御社はどうやって品質を担保する気なのか説明しろ』みたいな事を言っていたと思います。それだけは何とか聞き取れましたが、それ以外は……」
「わかった。ありがとう」と僕は後輩に礼を言った。
一つ心当たりがあった。
世に出回っている製品は、その部品や搭載されているプログラムが期待通りに不具合なく動作するかどうかを確認する工程がある。それを「テスト」と言い、「テスト項目書」と呼ばれる確認事項をリストアップした表をもとに実施する。
僕と松本さんは、その「テスト項目書」の作成方針について、かなり長い間揉めていた。今までは取引先の前任者が間に入ってくれたので、松本さんと直接やり合うようなことはなかったが、前任者は松本さんに説明するのにかなり苦心したようだった。たかが一機能のテスト項目書を作るだけなのに、その議論は三ヶ月にも及んだ。その時間があれば、一旦テスト項目書を作ってしまった方が早いと思えるほどだった。それほどの期間を、松本さんとの不毛な議論に費やしてきた。前任者が病むのも仕方のないことだった。
ろくに情報も展開しないで、ぽっと湧いたかのように契約外の新しい要望をさも当然のように挙げてくるこの人を、僕は苦手としていた。いや、得意な人などいないだろう。何を考えているかもわからず、一人で情報を握ったまま、自分のペースで周りを翻弄するタイプの人間。一緒に仕事するだけでも大変なのは言うまでもないが、それが取引先の人間で、さらにそれなりの役職を伴う人間ともなると、話はさらに厄介になる。上層部が腐っている組織は、その下も少なからず腐敗の影響を受けているからだ。
この人の要望の仕方は、飲食店で喩えるなら、カレーライスしか注文していないにも関わらず、ラーメンは付属しないのかとクレームを言う客のようなものだった。その度に説明して理解してもらうのだが、クレーマー処理と同じように、それに掛かる労力と時間は決して少なくはなかった。僕はそのような交渉をする度に、魂が削り取られていくのを感じた。
——今回もうまく調整できればいいのだが。
そう心の中で唱えながら、僕は松本さんに電話をかけた。
電話の呼び出し音が鳴り始めたとき、「このまま世界が終わってくれたらいいのに」と心の底から願わずにはいられなかった。
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