砂丘の満月

インサイド・アウト 第20話 夢と現実の狭間で(4)

 車は国道を進んでいき、田園風景の中に突如現れた巨大な建物の駐車場に入っていった。そこは比較的新しめの大病院だった。

 悪天候にも関わらず、受付の座席がいっぱいになるほど人で賑わっていた。患者のほとんどが老人で、ここが町の唯一の社交場であるかのように世間話に花を咲かせている。

 夏希さんが受付に行って手続きを進めている間、わたしは老人たちの中に混ざって待合室の長椅子に座っていた。天井に吊るされている大型の液晶テレビからは少量の音とともに淡々と映像が流れている。ちょうど今は昼のワイドショーが終わり、番組と番組の間に放送される短いニュース番組が始まる頃だった。

 アナウンサーは「国連安全保障理事会は、その常任理事国として本日より新たに日本を加えるという声明を発表しました」と抑揚のない声で言った。

 わたしは最初、その言葉が何を意味しているのか理解できなかった。アナウンサーは淡々と説明を付け加える。日本は安保理の常任理事国入りをしただけでなく、核兵器の保有を世界的に認められたとのことだった。歴史的にも異例の決定に、国民の日本国政府に対する支持が急速に高まっているとのことだった。画面は、街ゆく人々のインタビュー映像に移る。誰もが、政府を賞賛し、国の将来がいかに明るいものかを熱く説いていた。このような素晴らしい国に生まれることができて本当によかった、と若者から老人までが一様に口を揃えて言っていた。わたしはその映像を見ていてなんとも言えない居心地の悪さを感じた。鳥肌がつまさきから頭の先まで立っているかのような気分だ。しかし最も不気味なのは、そのようなニュースが流れているにも関わらず、相変わらず世間話に夢中になっている周囲の老人たちだ。彼ら、あるいは彼女たちにとっては、人間社会はこの田舎町の中で完結してしまっているように見えた。世界で何が起ころうと自分たちには関係ないことだと思っているようにわたしの目には映っていた。その良し悪しについてわたしに論じる権利がないことは自分でもわかっているが、とにかくそれは、極めて奇妙な光景としてわたしの目に焼き付いた。

「受付が終わりましたので、どうぞこちらへ」と夏希さんは言った。それから案内されるがままにエレベータに乗ると、彼女は五階行きのボタンを押した。エレベーターの中には、他に患者はいなかった。

「あの男は、今こうしている間も、着実に力をつけていっています」と夏希さんは独り言のようにつぶやいた。あの男とは、黒スーツの男のことなのだとわたしにはすぐにわかった。「あのニュースが本当だとすると、言うまでもなく、先日の世界同時クーデターに日本は深く関与しているでしょう。目的は、安全保障理事会の常任理事国入りすること自体ではなく、核兵器の合法的な保有であることは明らかです。あの男はこの地球だけでなく、これからやってくる宇宙進出時代に向けて、この世のすべてを支配する準備を着々と進めようとしているのです」

 上昇するエレベーターの中で、夏希さんはすべてを見通しているかのように窓の外を眺めていた。室内と外気の温度差によってガラス窓は白く曇り、視界は遮られている。

「これからどこに行こうとしているの?」とわたしは夏希さんに訊いた。

 ポン、と気の抜けた音と共に、エレベーターの扉が開く。わたしの声など聞こえていないかのように、夏希さんはエレベーターを出て、そのまま早歩きで進んでいった。訊かなくても、おそらくすぐに答えは出るだろう。それでもわたしは、この先で待つ人が誰なのか、早く答えを確かめたくて仕方がなかった。

 ナースステーションの前を過ぎ、そのまままっすぐ進んで行くと十字路に差し掛かった。十字路を右に曲がると、今度は円形のカーブを描く長い通路に出た。外周に連なる病室の入り口には、入室者の氏名が書かれたルームプレートが掲げられていた。自分の知っている名前がないか、わたしは無意識のうちに目で追っていた。

 病院の中を歩いていると、頭部だけの姿になって病室で目覚めたときのことが鮮明に思い出された。だけど、嫌な気持ちはしなかった。あの絶望感を超える出来事は、これから先、もう二度と経験することはないだろうと考えたら、一気に安堵感が込み上げてきたからだ。まだ見ぬ未来にどんなに辛い現実が待っていようとも、乗り越えられるような気がした。

 なぜこのタイミングなのかはわからない。だけど、今この瞬間、わたしのこれまでの人生において黙って飲み込むことしかできなかったひとつひとつの事象が、何か別の目的のために一気に昇華されたような感覚に包まれたのだった。胸の中に巣食う蜘蛛が自ら巣を取り払い、自らの光によって暗路を照らし出すような感覚。生まれて初めて、わたしは自分の人生に使命感のようなものを感じていた。

 気がつくと、わたしは立ち止まっていた。目の前の病室のルームプレートに書かれた名前に、不思議と懐かしさが感じられた。その文字を確かめるように指でなぞると、なぜだかわからないが、自然と涙が流れてきた。それから、新しい疑問がふっと頭に浮かんだ。

 どうしてこの人は入院しているのだろう?

 四日前、国道沿いの小高い丘の上に建つ鎧張りの平家付近で、彼のGPS信号は途切れていた。その理由が、スマートウォッチのバッテリーが切れたからなのか、それとも電波の通じない場所に移動してしまったからなのか、そのどちらなのかはわからない。何のためにあの場所に行ったのかは知らないが、おそらくそこで彼の身に危険が迫り、この病院に運ばれたのだ。

 夏希さんは病室の引き戸を開くと、躊躇することなく中に入っていった。それからこちらを振り向いて言った。

「さあ、どうぞ。響おじさんが、あなたのことを待っています」



 病室はバリアフリーの行き届いた一人用の個室だった。より多くの患者の治療を重視する無機質的な病院とは異なり、終末医療に重きを置いたと思われる、木を基調とした温かみのある内装だった。

 壁一面ガラス張りの病室からは、天気が良ければのどかな田園風景を一望することができたのだろうが、滝のように窓を流れ落ちる雨で、外の景色は深く滲んでいた。黒くまどろんだ雲の間を縫うように稲光が走り、ゴロゴロと大気を不穏に震わせている。

 窓際のベッドの上で、彼は眠っていた。わたしは来客用のパイプ椅子に座り、その横顔を見た。《青木ヶ原樹海》で会った時と同じように、ひどくやつれている。眼窩のくまはさらに深くなり、頬はミイラのように痩せこけていた。死人のように目を瞑り、音も立てずに浅い呼吸を繰り返している。平らな胸がわずかに上下するのを見てはじめて生きていることが確認できるほど、その肉体からは死の匂いがあふれ出ていた。

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