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インサイド・アウト 第7話 砂漠の無人駅(3)

 《左右対称の顔の女》と《黒ベストの男》に会って以来、それから奇妙な出来事が起こることはなかった。

 見ず知らずの女性に突然話しかけられることもなければ、自宅マンションのポストに差出人不明の手紙が入っていることもなく、黒いベストの男が仕事帰りに待ち伏せしているようなこともなかった。二日間のうちに連続して起きた不可解な出来事の記憶は、頭の中から完全に消え去ろうとしていた。

 その一方、僕を取り巻く状況は今までと一変していた。取引先の担当窓口が松本さんに変わってからというもの、これまでやってきた仕事の内容について難癖をつけられ、何度もやり直しを命じられた。彼自身から新たに依頼された仕事も、情報が不足していたり、誤った情報のもとで作業させられることが多く、当然のことながら目的に沿った成果を上げることがなかなかできずにいた。そのような時でも彼は自分の誤りを認めなかった。当然ながら納期を調整することもしなかった。その皺寄せは、残業や休日出勤という形で補わざるを得ない状況になっていた。

 稼働時間の増加は、それと同時にコストの増加を意味する。前もって見積もっている稼働時間をあまりにも上回ってしまうと、チームとして出すべき利益が出せないどころか、赤字になる恐れもあるのだ。だから僕はこの事態を上司に説明し、顧客との開発費用の交渉をする意向を伝えた。

 しかし上司は首を縦に振らなかった。顧客との余計な軋轢は産みたくないというのが上司の意見だった。それはわからなくもない。僕だって無駄な争いごとは御免だ。だけも、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。

 どうにかして、上司を説得しようと手を尽くしたが、全てが無駄に終わった。それどころか、貴重な時間と体力を著しく失うだけだった。

「苦手な顧客でも、ちゃんと話せばわかってもらえる。だから辛抱強く対話を続けろ」

 何度も同じ説明させられ、散々くだらない説教をされた挙句に上司から得意げに聞かされる言葉はいつもこれだった。そんなことはわかっている。それでもうまくいかないから相談しているのだ。何度そう伝えても、議論は平行線を辿った。

 やがて上司に報告や相談をするのをやめた。そして残業や休日出勤をする代わりに、ノートパソコンを自宅に持ち帰って仕事した。当然、無賃労働だ。会社の外で、誰に強要されるわけでもなく働く時間に、給料など付かない。

 もし仮に、時間外労働時間として賃金が支払われるとしたら、おそらくこの時間だけでも平均的なサラリーマンの月収は上回ろうかと思うほど、寝る間も惜しんで仕事した。そうでもしないと、顧客から追加予算をもらわずに最後まで業務を遂行することは不可能な状況にまで追い込まれていたからだ。

 朝、疲れも眠気も抜けてない状態で職場に着くと、就業時間前にも関わらず、急に電話で呼び出されることが何度もあった。その度に何の前振りもなく議論を持ちかけられ、よくわからない会議に丸一日振り回された。数日後に予定していた打ち合わせの進行を前準備もなく突然やらされたり、過去の仕事にクレームを付けられたり、追加予算なしで新しい仕事を押し付けられそうになったこともあった。


 多くの人々は電話機のことを、離れた場所にいる者同士を容易に会話できるようにした、現代の素晴らしい発明の一つだと考える。しかし幼少時代を通して、僕は電話機のことを便利で素晴らしい道具だと考えたことは一度もなかった。

 電話は僕の心の静寂を破る。電話が鳴ると、心臓は飛び上がるように大きく脈打ち、口の中が渇き、挙動不審になった。そこに電話が存在するだけで、落ち着かない気持ちになる。見えない場所からスナイパーに狙いを定められているかのように。だから、電話がこの世の中になければどんなにいいだろうと、幼い頃からずっと考えていた。

 それなりに電話に慣れ、脅威と呼ぶほどではなくなった今でも、電話のことを考えるとわけもなく暗く重い気持ちになることがある。急に喉が渇き、声の出し方すら忘れてしまうことがある。そういう反応は身に染みついてしまっているのだ。深い無意識の領域まで。

 電話に対する恐怖がいつから始まったのか、僕は今でもはっきりと覚えている。

 三歳のとき、自分だけが取り残された静かな家の中で、黒電話のベルが喧しく鳴り響いた。幼いながらも、電話は鳴ったら出るものだという認識を持っていた。我ながら、なかなか賢い子だった。そうしないと、連絡を取りたがっている誰かが困ることになるのを知っていた。しかし、黒電話が鳴ったとき、僕には電話に出る勇気がなかった。受話器を上げて耳に当てたところで、何と言えば良いのかわからなかったからだ。

 鳴り続ける電話機の前で、僕は立ちすくんだ。どれくらい時間が経ったのかわからない。鳴る回数が増すにしたがって、恐怖心は益々大きくなった。大事な用件で、僕のせいで重要なタイミングをとっくに逃してしまったかもしれないと思うと、いたたまれなくなった。永遠にも近い時間が流れる。恐怖と罪悪感に苛まれながらも、一歩も動くことができないことに葛藤を覚えた。そして、自分がひとりで家に取り残されている事実が深く胸に突き刺さるのだった。

 電話が鳴りやむと、それと同時に開放感に包まれた。しかし、電話に出られなかった罪悪感はいつまで経っても消えない。自分でも説明の付かない感情が込み上げ、僕は大声で泣いた。玄関に出て母の帰りを待ったが、母はなかなか帰ってこなかった。玄関の土間にひれ伏し、コンクリートを濡らした。そこで再び、永遠にも近い時間が流れた。

 母はよく長電話をした。親戚だか友人だか知らないが、平日の昼間、ワイドショーをやっていない時間帯はだいたい電話をして過ごしていた。誰かの悪口を言うか、ただただ相槌を打ち続けるかのどちらかだったが、一旦話し始めると長かった。毎日毎日、一体何を話すことがあるのだろうかと疑問に思うほど、母と言えば電話をしている印象しか僕にはなかった。

 そんな母に対して一度だけ、怪我したふりをして、どうにか構ってもらおうと企んだことがあった。一言でも声をかけてくれるだけでよかった。なんなら軽く微笑みかけてくれるだけでもよかった。それで満足するつもりだった。しかし母は、僕がどんなに演技して痛がったり苦しんだりしてみせても、まるで僕など最初からそこに存在しなかったかのように、一瞥さえしなかった。耳に受話器を当て、見えもしない相手に熱心に相槌を打ち、その視線が向いているのは何もない壁だった。壁以外には何も存在しないはずの空間から、母は一度も目を離そうとしなかった。

 僕は、多かれ少なかれ、母にとっては意味を持つ存在だと思っていた。母はそんな僕には一切目もくれずに、見る意味も価値もないはずの場所をずっと見つめていたのだ。騒ぎ立てる僕のことを煩うこともなく、咎めるわけでもなく。

 そのときはっきりと認識したのだった。僕は「無」よりも価値が低いのだと——。


 ふと意識が戻ると、電話のコールが鳴り続けていた。立ったまま、意識がどこかへ飛んでしまっていたようだった。何回鳴り続けていたのかはわからない。周囲の視線が僕に集まっていることを考えると、鳴っていたのは三回や四回ではないのだろう。

 僕は慌てて受話器を取った。

「はい。日並です」と僕は言おうとした。

 しかし、声を出すことができなかった。

 もう一度大きく息を吸って言葉にしようとする。しかしやはり声は出ない。

 言いたいことは至って簡単なことだ。「はい、日並です」、ただそれだけの言葉。だが僕はそんな簡単な言葉すら発することができなかった。まるで声の出し方などすっかり忘れてしまったかのように。もしかしたらこのままずっと話せなくなるのかもしれない。そう考えたとき、電話の向こう側から心配するような優しい声が聞こえた。

「もしもし、日並さんですか?」

 かけてきたのは総務課の女性からだった。

 次の瞬間、「はい」と無意識に声が出ていた。

「先ほど、◯◯株式会社の松本さんからお電話がありました。折り返し電話するよう言伝を受けましたので、それをお伝えしたく、電話を差し上げたのですが」

「ああ……わかりました。ご連絡ありがとうございます」

 何事もなかったかのように、僕は答えた。声の出し方を忘れていたわけではないようだ。

「……大丈夫ですか? 余計なお世話かもしれませんが、いつもより元気がないような気がして」

「いや、ちょっと考え事をしていただけで……僕は大丈夫。ありがとう」

 まさか間違っても「声の出し方を忘れてしまって」などとは言えない。僕は早々に電話を切り上げて、松本さんに折り返し電話をした。

 またしても急な呼び出しだった。せっかく朝食で食べようと買ってきたハムサンドは、どうやら昼食になりそうだ。約束の時間に間に合わせるためには、すぐに向かわなければならない。


 日々、取引先からの無茶な要求を処理しつづけ、上司や同僚が僕のことを遠巻きにして見ているのを感じながら、時は過ぎ、気がつくとすでに四月の下旬に突入していた。翌週からは大型連休を控えている。

 僕も含め、社内には和やかな雰囲気が漂っていた。今週は新しい仕事には着手せず、これまでの仕事の仕上げと連休以降の準備に時間を当てて、すっきりした気持ちで連休を迎えようとしていた。

 そして、大型連休前の最終出勤日。社内は完全に店じまいムードだ。取引先も同様に、皆で連休を取ろうという空気感になっていた。処理すべき仕事が溢れかえっている僕も幸い、連休を取らせてもらえることになった。しかし納期に余裕があるわけではなかった。むしろ連休を使わないと処理できないほどの量だった。だから僕は心の中では決心していた。この大型連休中に、大きな案件はあらかた目処を立てておこう、と。

 明日から十二連休。

 浮かれた気持ちを隠しきれずに退社する同僚たちを尻目に、僕はいつものように会社のノートパソコンをこっそりカバンに忍ばせ、足取り軽く、タイムカードを打った。強い意志を胸に秘めて……。

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