中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第11話 幾望の月(3)

 左右対称の顔の女から「一緒に寝て欲しい」と言われた僕は、戸惑いながらも女に導かれるまま寝室へ行き、明かりを消してベッドに横並びになって座った。

 すぐ横には女の顔があったが、窓から注ぐ月の光によって陰になり、よく見えなかった。僕の目が暗闇に慣れるのを待つかのように、女は何も言わずにこちらを向き続けた。やがて目が慣れ、その美しすぎる顔の一つ一つが輪郭を帯び始めたとき、女は静かに立ち上がり、音も立てずに服を脱ぎ始めた。

 皺一つなかったリクルートスーツを床に落とし、ブラウスとスカートをその上に重ねた。それからストッキングを丁寧に脱ぎ、二度折りたたんで、その脇にそっと置いた。青白い月の光が女の肌を冷たく照らし、立体的に浮き立たせる。しばしその光景に息を飲んだ。だがそれは性的な衝動ではなく、芸術の追求のためだけに作られた裸体の彫刻作品を鑑賞しているかのように、ただの審美的な観点で見惚れているだけに過ぎなかった。

「怖かったでしょう」と左右対称の顔の女は言った。それから僕の顔を胸で包み込むように抱き寄せた。「今までよく耐えましたね。あんなに辛い日々を、一人でよく頑張りました。それはあなた自身が他の誰よりもよくわかっているはずです。だから自分のことを誇りに思ってあげてください。自分のことを責めても、何も良いことはありません。自分に厳しく生きることと、自分を責めることは、全く違うことなのですから」

 いい匂いがした。花蜜とハーブが混合したような香りがしたかと思えば、コーヒーの苦い香りがわずかに混ざり、その次には母乳のような暖かく優しい甘みが鼻の奥に広がった。

 怖かった。でも怖いのは、この理不尽な社会でも死でもなく、死を夢見て、実際に死に至る試みを行ってしまった自分自身に対してだった。

 死ぬのはもちろん怖い。でもその怖さは、生物の生存本能から来るものだけではなかった。きっと、〝自分がこの世界からいなくなっても世界が成立してしまうこと〟が怖いのだ。それなら、いてもいなくても、どっちでもいい。最初から存在しなくたっていい……そう、考えてしまったのだ。

「それは違う……と私は思います。もし、この世界から一人も人間がいなくなったらどうなりますか? そしたら人類は滅びてしまうでしょう。つまりどういうことかというと、この世界があなたという存在を失った穴を他の誰かが埋める以前に、あなた自身が他の人たちの穴を埋めてきたのです。ただそれだけのことです。あなたがお金持ちであろうが、貧乏であろうが、無職であろうが、犯罪者であろうが、誰かを失ったことで空いてしまった穴をあなたが埋めただけにすぎないのです。あなたは、存在するだけですでに人類全体にとって意味を成しているのです」

 僕の心を読んだかのように、女は言った。そういえば、テレパシーのようなものを使えると女は言っていた。僕が頭で考えるだけで、彼女には全てお見通しなのだ。そういえば一ヶ月前のあの日、喫茶『ロジェ』で「この世に十分満足したか?」と訊かれた時も、僕が考えていることを言い当てていた。あれは偶然でも何でもなく、僕の頭の中を読み取っていたのだ。

「……それでも、僕がこの世界でこれ以上生きる理由にはなり得ない。空いた穴を埋めてくれる誰かがいるなら、無理してこの世に留まる理由もない」

 女の暖かい吐息が首元に当たる。

「そうですね。日並さんの言う通り、無理して生きなければならない理由はないと思います。苦しければ抜け出せばいいのです。例えそれが『逃げ』だと言われたとしても……」、女は抱きしめていた両手をほどき、僕の目を見て言った。「私も怖いのです。私は、これ以上生き続けるのが怖い。永遠の命を手に入れ、あらゆる不可能が可能になった末に、全てを失って自由すらも得られない毎日から、一日も早く解放されたいのです。あらゆることが可能になったのに、全てを失って自ら死を求めるとは、生命とは何とも愚かなものです。私は無に帰りたい。死ぬことこそが何よりも希望です。私は、そんな絶望に覆われた《原点》の宇宙を終わりにしたいのです。そのためには、まずは私自身がその存在を消さなくてはなりません」

 女の話を聞いていると、自分が今まで苦しんできたことがとても些細なことに思えてきた。彼女がどのような世界で生きてきたのか、僕は知らない。永遠の命や、どこへでも瞬時に移動できる能力も羨ましいと思う。だけど、詳しいことは知らないが、全ての自由が奪われた世界で永遠に行き続けることの辛さは、想像を絶するほどの絶望なのだと思った。

 そのまま僕たちは横になった。今度は、僕が女の顔を胸で包み込むように抱き寄せた。女の体は、彫刻のように冷たくて固かった。


 窓から空を眺めると、限りなく満月に近い十四日目の月——幾望(きぼう)の月が、窓から僕たちを覗いていた。空には雲一つもない。風音も聞こえない。

 窓から降り注ぐ月の明かりは、一五歳まで暮らした実家の夜を想い起こさせた。昔は、月の光が入る窓を眺めながら、誰か連れ去りに来てくれないかと夢見たものだった。窮屈な田舎の、息苦しい家の中から、どこかの国のお姫様に連れ出して欲しいと思っていた。僕を必要としてくれて、甘えさせてくれて、いつも一緒にいてくれる。誰にも言えないことだが、僕はそんな女々しいことを幼い頃からずっと考えていた。

「何を考えているのですか?」

 月明かりで肌を白く照らし、左右対称の顔の女は言った。きっと僕の心を読んでいるに違いなかった。

「故郷の実家のことを考えていました」

「忘れられないのですか?」

「あそこに住んでいた時、僕はいつもどこかに逃げ出したいと思っていた。だから、僕は庭に穴を掘った。その先がどこか別の場所に繋がるような気がして……」

「その穴はどうなったのですか?」

「わからない」と僕は言った。

「確かめてみたいとは思わないのですか?」

「どうして?」

「もし残っていたら、今度こそあなたの求める『どこか別の場所』に行けるでしょう」、女は予言のように言った。

「そうだと良いのだけれど」

「それと、あなたにはもう一つ、故郷を忘れられない理由があるはずです」

 姪の夏希のことを言っているのだと思った。《青木ヶ原樹海》で自死を試みた時、走馬灯の一番最後に彼女は登場した。姉が亡くなったあと、本当であれば僕がもっと支えてあげるべきだったと、ずっと後悔し続けていた。もしかしたら、それが唯一の現世に対する心残りかもしれなかった。少なくとも彼女には僕と同じ絶望に陥って欲しくない。この世界に失望して欲しくない。自分勝手な考えであることは重々承知しているが、そう考えていることは事実だった。

「……明日、実家に帰ろうと思う」と僕は言った。

 女は静かに頷いた。それから手を繋いで、二人で窓の外を見た。

 故郷の空と違って、夜空に星は一つも浮かんでいなかった。まるで月以外の部分が黒い絵の具で塗りつぶされたかのように、星々はその存在感を完全に消し去っている。

 窓の外から見守る月に別れを告げ、僕は瞳を閉じた。それから、久しぶりに帰る故郷の空を想像した。

 女の手を握りながら、僕は、昔よく聴いていたベートーベンの『月光ソナタ』を思い出していた。頭の中で、美しく幻想的な第一楽章が奏でられる。途切れることのない三連符の上に繰り出される付点リズムの繊細な旋律は、まるで葬送曲のように、僕の出発を見送っているかのようだった。

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