砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(5)

 今すぐ、止めなければ。

 僕は頭の中で、自分の体が動いている姿をイメージした。今すぐ、できるだけ早く、この肉体を動かさなければならない。

 その瞬間、体の中でつっかえていたものが除去され、呼吸を取り戻した。体中が痺れる感覚もない。

 今だ。

 僕は光よりも速く動く自分の姿を想像し、岩よりも硬い肉体を頭に想い描いた。それから地面を思いっ切り蹴った。

「……!」

 急速に接近した僕の姿を目に捕らえると同時に、等々力の瞳に恐怖の色が見えた。僕はそのまま強固な岩をイメージしたまま、等々力のみぞおちに拳を振り上げた。僕と等々力の身長差から考えると、効果的な一撃を食らわせるにはその位置が最適だと思った。

 確かな手応えがあった。確実に相手の急所に拳が入った感覚があった。

 しかし、等々力は笑っていた。僕の拳はあとわずかで等々力の体に届くか届かないかというところで、奴によって受け止められていた。等々力の目を見た。自分よりも弱い動物や昆虫を虐待する無邪気な少年のような、他人をどこまでも見下した目でこちらを見つめている。奴は余裕なのだ。いくら僕が俊敏な動きをしようと奴には見切られているし、どんなに重い一撃を入れたところで奴には効かないのだ。

「永遠の命を手に入れるというのがどういうことか、あなたはご存じないようですねぇ。永遠の命というのはですね、単に寿命がないだけではないのですよ。どんな病気にも罹ることはありませんし、ちょっとした怪我もすぐに自然治癒してしまいます。それに、今あなたの手で実際に確認したように、そもそも怪我をすること自体が滅多にありえないことなのですよ。私の皮膚は人間のようにやわじゃありません。刃物や銃器なら多少は傷つけられるかもしれませんが、私の体の再生力の方が上回るでしょう。そろそろおわかりになるはずです。あなたがたに私を傷つけることは絶対に不可能なのですよ」

 等々力は恐るべき握力で僕の手首を握りしめ、ぐっと力を入れた。脳天を突き刺すような激痛が走る。次の瞬間、果実を握りつぶしたときのようなぐしゃりという鈍い音と共に、僕の指の骨が手の甲から突き出していた。等々力は僕の拳をつかみながら、もう一方の手で顔についた血しぶきを仕方なさそうに拭き取ると、不気味な笑みを浮かべてぺろりと舐めた。

 自分の身に何が起きたのか、僕は理解することができなかった。白い骨をむき出しにして鮮血に染まった僕の右手は、現代風のオブジェか何かのような特殊な存在感を放っている。

「前にやり合ったときの反省点を活かして、ちょっとばかり筋肉の強度を上げてみたのですが、いかがでしたでしょうか。あなたも見かけによらずなかなかの腕前でしたが、私の方が何枚もうわてだったようですねぇ」

 そう言って等々力は手を離し、乞食を見るような哀れな目で僕を見た。

 もうダメかもしれない。強靱な肉体をイメージしても、等々力はそれ以上に強靱な肉体を持っている。それに向こうは三体のアリ人間までもいる。二対四。ただでさえ力の差が大きいのに、数でも負けているのなら、もう普通の手では勝ち目がない。

 前と同じように、僕は脳を取り出され、暗闇の中で再び宇宙の創造と破壊を繰り返すのだろうか。

 何億光年もの時間を独りで過ごしたあの時のことを考えて、とてつもなく気が遠くなった。だけどあのときは、時間はある程度好き勝手に制御できた。時間の流れを速くすることもできれば、遅くすることもできた。それこそ自分の意のままに――。

 そうか。あのときのイメージを、もう一度。

 目を閉じて、静かに頭の中で想像した。音波さえも視認できるほどのゆったりとした時間の流れ。悠久の時間。

 等々力は、一歩、また一歩と僕の方に歩み寄ってくる。その動きはまるでスローモーションにでもしているかのように遅い。コツン、コツン、という音は間延びした鈍い音になり、空気の振動すら目視で確認することができそうだ。実際にはほんの一瞬でしかないこの時間で、僕はさらに様々な想像を膨らませる。等々力によって支配された《原点O》に地球が誕生し、人類が文明を持ち始め、宇宙に進出していくまでの経緯が、走馬灯の如く一瞬のうちにまぶたの裏側に流れる。

 ふと、等々力が長い間ここで神になるための研究に没頭していたのかと思うと、なんだかとても滑稽なことに思えてきた。有限であることを恐れ、無限の存在になろうとしていること自体が、有機生命体の生存戦略として非常にナンセンスなことであるにも関わらず、研究のために人類すべてを犠牲にしてきた彼が、この上なくかわいそうな生き物に思えてきた。

 僕は知っている。宇宙の生と死を何度も見てきた僕は、これまでの人類が知り得なかった事実を知っている。

 遙か昔に誕生した原始の生命には、寿命という概念がなかった。不滅であることは多数派であり、死という概念を持つ生命は極めて少数派だったのだ。

 しかし、めまぐるしく変化する宇宙の環境にうまく順応することができたのは、死という概念を持つ生命の方だった。皮肉なことに、死ぬ道を見いだした生物が、長い目で見たときに長く生きることができた。

 生命は、永遠に存続するための手段として、死を選んだのだ。生と死をちょうどよいサイクルで回すことを学んだ者こそが、めまぐるしく変化する環境に順応することができたのだ。

 そう考えると、永遠の命を手に入れ、万物の神になろうとしていた等々力の企み自体が、進化どころか著しい退化へと向かう試みだということになる。自身の愚かな野望のせいで、自分自身だけでなく生命すべての未来を潰えることになったのだ。

「だけど、どのみち、この宇宙は終わりだ」と僕は言った。

「今、何ておっしゃったのですか?」

 等々力は僕の前で立ち止まり、露骨に顔をゆがめる。

「この宇宙はもうお終いだと言ったんだ」

「何をおっしゃっているのかさっぱりわかりませんが」と等々力はあきれたように言い放つと、僕の頬に向かって拳を振り上げた。

 最小限の動きで、紙一枚ほどの差で拳を避ける。それから、振り切ったまま宙を掻く等々力の右手をつかむと、背後に回り、その腕を背中に回して関節を固めた。さすがの等々力も関節が固められると抵抗できずに座り込み、苦痛のうめき声を漏らした。

「な、なにを考えて……」

 等々力は僕が何か企んでいることに気がついたようだった。奴の回復力を考えると、この状態は長くはもたない。できるだけ早く、片をつけなければ――。

 抵抗する等々力の体を押さえつけながら、僕は目を閉じ、意識を一点に集中した。まず、生命はおろか、物質さえも存在することの許されない虚無の空間を頭の中に思い描いた。それから、その空間に等々力もろとも転送するイメージを描き出した。できるだけ具体的に、できるだけ鮮明に、何も存在しない空間がこの世界に実際に存在するという相反するイメージを強く思い描く。これですべてに片がつく。僕と等々力はともに無の空間に旅立ち、そこで肉体も精神も朽ち果てることになる。大丈夫。怖くない。必要なのは一瞬の勇気だけ。怖いのは、最初だけだ。

 さようなら、この世界。

 さようなら、僕の人生。

 さようなら、麻衣。

 麻衣? そうか。これがあの女の人の名前だったのか。でも、どうして僕は知らないはずの彼女の名前を知っているのだろう?

 そういえば、《左右対称の顔の女》も同じ名前だった。夏希が僕に教えてくれたんだった。

 同じ名前? そうか。だから彼女は僕を助けに来たんだ。

 一度広がりはじめた無のイメージは、容赦なく膨らんでいく。やがて、それは僕からあらゆる思考と感情を奪っていき、僕を構成するすべての要素はひとつ残らず、無へと帰っていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?