砂丘の満月

インサイド・アウト 第20話 夢と現実の狭間で(6)

「麻衣さん、あなたならきっと、おじさんを元に戻すことができるんじゃないかって、私は思うんです」、夏希さんは透き通るような瞳でわたしを見つめて言った。「おじさんはきっと、意識だけがどこかへ飛んでいってしまったのだと思います。だから、どうにかしてその意識だけでも連れ戻すことができれば、目を覚ますんじゃないかって思うんです」

《左右対称の顔の女》は、夏希さんに言った。次に訪れてくる人が女性だった場合は、その人に頼るように、と。

 それがわたしだ。確かにわたしは日並響を助けるためにやってきた。もし、Sと同じように自ら命を絶とうとしていたならば、それを引き止めるつもりでやってきた。だけど、わたしを待っていたのは予想の斜め上を行く事態だった。何が起きたのかはわからないが、彼の身にはすでに何かが起こった後だった。目覚めぬ人に言葉をかけても、心に届くとは限らない。わたしにできることは、おそらく何もない。

 だが、その一方で「あきらめないで」とささやく、もうひとりの自分がいた。

 今まで起きた出来事にはすべて意味があり、何かがヒントになっているような、そんな気がしてならなかった。わたしは何かを見落としているのかもしれない。何でもいい。些細な出来事でもいい。その中に、何か重要なことが隠されているかもしれない。わたしは今まで何をしていた? 生まれてから、今この瞬間に至るまでの間に何が起きた? 夢でも何でもいい。この人生を通して、啓示や警告のような形で無意識に訴えかけてきていたものが——。

 そのとき、わたしは、はっと気がついた。

 ——夢? 啓示?

 Sを探しに《青木ヶ原樹海》に向かう途中に買った『夢判断』という本の中に、夢に関する様々な見解が記されていたのを思い出した。夢はお告げであり、神々や精霊たちからの通信手段であるという考え方は、紀元前から存在していた。最新の研究では、先祖の記憶が見せた実体験が映像となって現れたものだという説もあった。夢そのものに、何らかの力があるという話もあった。

 いつも同じところから始まり、同じところで終わっていた夢は、Sと出会ったことによって変化を見せた。ビルから飛び降りたところで夢は終わらず、森の中で目覚め、そして大空を羽ばたいた。それから砂漠へ行き、幼い頃のSに会った。そのときわたしの夢は、Sが昔見た『砂漠の無人駅』の夢とつながったのだ。

 ふたりの夢がなぜ接続されたのかはわからない。神によるお告げかもしれないし、先祖の記憶かもしれない。夢そのものに、本当に力があるのかもしれない。今なら何だって信じることができる。でも、答えはどれなんだろう?

 そのとき突然、不安が襲ってくる。


 わたしなんかに、彼を助け出すことができるのだろうか?


 夜行バスの中で見た夢が、不意に蘇る。そのときに見た夢では、わたしはいつまで経っても彼を見つけ出すことができなかった。見つけたいと、一心に願っていたのにも関わらず。


 なぜなのか? 何がいけなかったのか?


 考えてもわからない。

 でも、思考を止めてはいけない。考えろ。考えなければ。

 《青木ヶ原樹海》のホテルでSと共に一晩過ごした時には、夢の中でわたしたちは出会うことができた。そして目覚めると、わたしは別の宇宙にいた。《左右対称の顔の女》が創り出した宇宙から、《うぐいす色のローブの男》が創り出した宇宙へと転送されていた。そして今、目の前に、Sの分身である日並響が眠っている。もしここでわたしが彼の隣で眠ったとしたら、再び——。


「うまくいくかどうか、正直わからない。でも、できるだけのことはやってみようと思う。わたしじゃ頼りないかもしれないけど、それで……いいかな?」

 夏希さんはわたしの両手を強く握りしめたまま、小さくうなずいた。

 彼女の透き通った瞳を見ながら、わたしは考えていた。

 今、わたしの目の前には、大きな問題が三つ立ちはだかっている。一つ目は、探し求めていた人物が意識を失ったまま目を覚さないこと。二つ目は、世界は今このときも、わたし以外の誰にも気づかれることなく、ひとりの危険な人物によって独裁される未来に向かって突き進んでいるということ。そして三つ目は、わたし自身が元の世界に戻らなければならないということだ。

 これら三つの問題は、まったく性質の異なる事象のように見えて、実はそれぞれが密接に関係しているような気がしてならなかった。根拠はない。しかし直感が、そう語っている。

 どこまでできるかわからない。それでも、精一杯、やってみるしかない。うまくいかなければ、そのときまた考えればいい。

 夏希さんの手を離し、わたしは両手で彼の右手を包み込んだ。骨張っているわりに温かい手からは、生きようとする強い脈動が感じられる。

 わたしは目を閉じて、意識を集中した。視界は暗転し、すべてを飲み込んでしまいそうなほどの暗闇に包まれている。脳内の神経を細部まで研ぎ澄ませ、外部からのノイズをシャットアウトする。やがて雨音は聞こえなくなり、オルゴールの澄んだ音色だけが耳に届いてくるようになった。手の指先を通して感じる彼の鼓動と息遣いに、自らの鼓動と呼吸を合わせていく。

 あの時と同じように彼の意識と結合することができれば、もしかすると、今わたしのいる空間も、彼のいる場所と結合されるのかもしれない。あの夢の、さらにその先の続きを見ることができるのかもしれない。だけど——。


 ——どうやって助けるつもりなの?


と、頭の中のもうひとりの自分が疑問を呈する。

 わからない。何もできないかもしれない。だけど、彼をこのままにしておくことはできない。ひとりにしておくことはできない。〝こちら側〟の世界で眠っている彼は、もしかすると〝向こう側〟の世界で途方に暮れ、誰かの助けを求めているかもしれない。夢の中で、幼い頃のSが砂漠の中で誰かが来るのをずっと待っていたように。


 ——〝向こう側〟の世界がどうだとか、夢がどうだとか、バカみたい。


 再び、自分の中の懐疑的な自分が頭の中で声を上げる。先ほどよりも強い口調で、自分の考えを全否定してくる。

 確かにそうかもしれない。わたしが考えていることは、ただの幼稚な妄想なのかもしれない。でも、そんなことは最初からわかっている。SNSのタイムライン上に偶然表示された《青木ヶ原樹海》の写真に心奪われたその時から、いや、あるいはそれ以前から、この世界は誰かが創り出した虚構の世界なのだと薄々感づいていた。わたしが過ごしたのは《左右対称の顔の女》の脳内に創り出された宇宙であり、わたしという存在は、彼女が彼女自身を罰するために創られたのだ。この世界は最初から夢の中のようなものなんだ。だとすると、夢は限りなく現実に近い現実だと考えても間違いではないはずだ。それに、わたしはSと約束した。「次にあの夢を見た時、きっと助けに行く」って。

 暗闇の中で、彼の手の温もりとオルゴールの音色が混ざり合って、意識の中に溶け込んでいく。

 以来、わたしの中にいる否定的な自分が、再び声を上げることはなかった。


 どのくらいの時間が経ったのだろう。いつの間にかオルゴールの奏でる音色は聞こえなくなり、わたしの意識は、何も存在しない無の空間の中にいた。目を開いている感覚があるのにも関わらず、何も見ることができない。肌で感じることもできない。

 やがて皮膚にしびれるような感覚が現れてくると、それに同調するかのように他の感覚器も本来の機能を徐々に取り戻していった。冷たくて乾燥した空気が肌をなで、星空の下でアーチを描くなめらかな丘陵が姿を現していく。

 わたしは広い砂漠の真ん中にひとりで突っ立っていた。砂丘の影が少しずつ小さくなっていき、連なる砂の丘の間から、はりぼてのようなオレンジ色の月がこちらを覗き込むように姿を現し始める頃だった。

 目の前に広がる風景は、かつて夢の中で見た砂漠の光景とまったく同じだった。だが、これは夢ではなく現実なのだと、わたしは強く確信していた。

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