中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第6話 記憶の欠片(2)

 それから三十分ほどは——Sが自分から話題を振ってこなかったというのもあるが——わたしは自分の話をした。

 自分が仕事をやめることになった経緯。数少ない友人とのこと。子供の頃、毎晩窓の外から夜空を見上げては、白馬の王子様が連れ去ってくれることを妄想していたこと。それから、両親とうまくいっていないこと。

 話をしている間、Sは時々わたしの話を邪魔しない絶妙なタイミングで相槌を打ち、静かな聞き役に徹してくれた。次第にお互いのことがわかるにつれ、笑いが出ることもしばしばあった。Sが笑うのを聞いてわたしは嬉しかった。それがなぜなのかは自分でもよくわからなかったが、Sと電話してよかったと心から思っているのは事実だった。

 途中、わたしたちのこの微妙な関係(良い意味で)の適切な呼び方を考えていた。友達でも恋人でもなく、気になる異性でもなく、他人でもない。しかしお互いに敵意はなく、距離は一定に保たれつつも、どことなく慈愛に満ちている。そのような関係を端的かつ適切に言い表せる言葉をわたしは知らなかった。

 Sは時々申し訳なさそうに質問した。それに対して、わたしはできるだけ飾らずに等身大に答える。彼は、デリケートな話題に触れるときは十分に言葉を選んで口にしていた。わたしが傷つかないように彼が配慮してくれているのが嬉しかった。それだけでわたしはSにすっかり心を許し、自分の辛い過去についても気にせず話すことができた。

 時計の針は午後八時半を指そうとしていた。両親はまだ帰ってきていない。暗い部屋の中に閉じこもってSと電話で会話しながらも、わたしの注意は常に玄関に向けられていた。彼らが帰ってきたら、わたしの心の平静は乱される。時間はもうそんなに残されていない。Sは、わたしと電話したことで少しでも気持ちは楽になったのだろうか?

「あの……わたしの話ばかりですみません。Sさんも何か話したいことがあったんじゃないですか?」

 少しの間が空いて、Sが答えた。

「僕は大丈夫です。ただ単に誰かと繋がっていたかっただけで、特に聞いてほしい話があるわけではないですから」

 それから再び重い沈黙が流れた。

 その間わたしは、Sの最初の投稿を思い出していた。


 3月31日——
〈今朝、砂漠の夢を見た。この夢は以前に一度だけ見たことがあった。それは幼い頃、三歳か四歳の頃に一度だけ見た夢とまったく同じだった。何かを示唆しているような、不吉な予言のような夢——〉


「ひとつ、訊いてもいいですか?」、返事はなかったが、Sの頷く音が聞こえた気がして、わたしは話を続けた。「砂漠の夢って、どんな夢だったんですか?」

 彼の身に良くないことが起こり始めるきっかけとなった出来事——それが砂漠の夢だった。わたしはそれがどのような夢だったのか、彼の投稿を読んでいるときからずっと気になっていた。所詮は夢だ。現実世界との間に因果関係などあるわけがない。現実での出来事が夢に反映されることはあっても、夢での出来事が現実に反映されることはないのだ。でもわたしには、それがただの不吉な夢だとは思えなかった。

 Sはしばらく考え込んでいるようだった。十秒ほど経ってから彼は思い切ったかのように電話の向こう側で大きく息を吸い、それから話し始めた。

「なんてことはない、単なる悪夢です。ただ僕はなぜか砂漠にいて、そこにある六畳ほどの小さな無人駅の中で、父と一緒に何かを待っているのです。でも父は、僕の知っている父とは少し違いました。雰囲気とか、言動とか……。だから僕にはそれが本当に父だったのかどうかはわかりません。その父は、やがて地面に棲む蜘蛛に捕らえられて姿を消してしまいます。そして僕は、その砂漠の真っ只中にある無人駅の中に独りで取り残されてしまうのです」

「地面に棲む蜘蛛」

「……そう。どう表現してよいかわからないのですが、それは確かに、地面に棲む蜘蛛でした」

「それからどうなったのですか?」とわたしは訊いた。

「それから……」、Sはそこで黙り込んだ。

「覚えてないのですか?」

「……はい。でも、どこか遠くの方で耳鳴りのような音がして、その音がどんどん強くなっていって頭が割れそうになったところで、僕は目が覚めました」

 Sの夢の話は、結局のところ、よくわからなかった。父親と一緒に砂漠の無人駅にいて、父親は蜘蛛に捕らえられて姿を消す。不吉といえば不吉な夢かもしれない。だがそのような夢は決して珍しいものではない。出来事に脈絡がなく、先ほどまで近くにいた人が突然姿を消す。ありふれた夢だ。そのどこに、不吉な予言を思わせる要素があると言うのだろうか。

「ひとつ話しておきたいことがあるとすれば——」、電話の向こう側で、新品のペットボトルの蓋を開け、液体を喉に通す音が聞こえた。それから荒い息と共にSは再び話し始めた。「夢は、僕たちにとって重大な意味を持っています。それは常に、何か重大なことを示唆しているのです。だから、単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない。注意深く観察し、よく分析しなければなりません。もう一度言います。単なる夢だからといって、軽んじて考えてはならないのです」

 僕たち、というのが、人間全般のことを指すのか、それともSとわたしの二人だけのことを指すのかはわからない。何かを訊こうとしたが、わたしが口を開けるより早く、Sは話を続けた。

「夢には、それ自体に強い力があります。僕たちの祖先が体験した強烈な記憶が、遺伝子に刷り込まれ、新たな生命として誕生した僕たちの脳が成長していく過程で勝手に刻み込まれたものを夢として見ているのかもしれません。あるいは、その《記憶の欠片》を遺伝子に刻み込めることを利用した何者かが、僕たちにある重大なメッセージを送っている可能性もあります。夢は、単に自分の体験をもとに無意識が作り出した創造行為というだけではないのです」

 それからSは何事もなかったかのように、「ありがとう。最後にマイさんと話ができてよかった。とても楽しかったです」と言い、わたしが何か言おうとした頃にはすでに電話は切られていた。

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